アダムスミス 道徳感情論 要約 5

第2篇 正義と慈恵について

第1章 それらふたつの徳の比較

 正当な動機による諸行為は、感謝の対象であり、また、同感を受けやすい。このことにより、報償の正当な対象と判断される。これは慈恵と関係が深い。また、慈恵や寛容は、限りなくfreeなものである。それは義務で無いし、奪い取ることもできないし、慈恵や寛容がないことには何の咎めもない。ただし、報恩への義務は完全無欠のobrigationとも言える。
 不当な動機による諸行為は、憤慨の対象であり、また、否認を受けやすい。このことにより、処罰の正当な対象と判断される。これは正義と関係が深い。なぜなら、正義に反した時に憤慨が起こり、正義に反した場合の処罰は、それが暴力であっても是認されるからである。
 慈恵と正義の最大の違いは、その処罰の適宜性である。慈恵の欠如は、時として憎悪や呆れの対象となるが、決して処罰の対象とならない。だが、正義の欠如は常に何らかの処罰の対象である。

第2章 正義の感覚について、悔恨について、および値打ちの意識について

 正義の感覚とは、契約の蹂躙、所有権の蹂躙から生まれる。そして、前者より後者の方が、より侵害の度合いが高い。このことにより、正義の諸法では、まず、生命身体を守るもの、次に、所有権を守るもの、そして最後に、個人権personal rightsすなわち、他の人々との約束によって彼に帰属するものが重要とされる。
 悔恨とは、過去の行動の不適宜性からくる恥ずかしさ、それの諸効果についての悲嘆、それによって受難する他の人々への憐れみ、処罰への恐怖と懸念などから成り立つ意識である。
 値打ちとは、悔恨とは反対に、適切な諸動機から何かの行為をした場合、行為者自身が、恩恵を受けた者が為す感謝を眺める満足と、また、それによって恩恵を受けた者を見た観察者の彼らの感謝への同感、これらの複合的要素から生まれる正当な報恩のことである。

感想
 正義についての辺りを読んでいた時、自分の身の回りのことを思い出してしまい、憤慨の感情で全くまともに理解できなかった。
 驚くべきことに、慈恵的な行為の値打ちが理論的に証明された。ここまでの理論を読むと、慈恵的であることが、同感・適宜性・善い感情はどこまでも是認されること、などを通して、全く理論的に証明されていることがわかる。分かっていたこととはいえ、それが理論的に証明されたことは重要なことだ。

第3章 自然のこの構造の効用について

 慈恵のある社会は、快適であろう。しかし、慈恵はあくまでfreeなのであって、それは責務とはなり得ない。そこで、人間の社会に求められるものとは、正義justiceなのである。
 また、正義とそれに違反する不正への処罰については、今まで述べてきたように人間の中に自然にNatuerあるものであって、本来、その不正を証明するには、そこに憎悪と嫌悪がある。ということだけで十分なのである。なぜなら、人間は自分が生き、また人類が発展するための、そういったぜんまいを自然に組み込んでいるからである。にも関わらず、人は、侵害を受けた個人のために処罰を望み、不正がもたらす社会的秩序の崩壊によって、その不正の不正足る所以を論証しようとする。そして、これらの法の正しさは、人間が自然にもつ同感や適宜性の作用によって是認される。
 これと違う処罰に、例えば、軍規がある。それは時として厳しすぎる。これは社会的秩序を第一として是認される。
 つまり、われわれは、社会秩序維持の理由のみで不正を不正だと判断しているわけでない。このゆえに、その不正に対する正当な処罰を、宗教を用いて地獄に求めるのである。
*このあとに神とこのことの関係について書かれているが、第6版で削除されたようなので割愛。内容も確かに普遍的なことでなくて、彼の宗教精神が大きく関わっているように思われる。

感想
 そういっていいのなら、自然法ということだろう。法の二面性を感じた。今スミスは、人類の心から出る自然な法について述べている。これに対して韓非子で述べられる法は、完全に上から目線、社会秩序維持についての法である。だが、しかし、スミスの自然法の理論を全て社会に適用するならば、合法的な卑劣漢は存在し得ないはずである。省察の余地あり。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120308/1331203887