アダムスミス 道徳感情論 要約8

第2章 称賛への愛好について、称賛に値することへの愛好について、また、非難について、非難に値することへの恐怖について

 われわれは、愛されるだけでなく、愛されるべきものであることを望む。また、憎まれるだけでなく、憎まれるべきものであることを恐れる。
 本来、称賛は、自分が称賛されること、と、自分が称賛されるべきものであること、の二つの条件が重なることである。しかし、この前者のみを追求することが虚栄であり、それは諸悪徳であり、理性のある被造物として恥ずべきことである。一方、自分が称賛されるべきものであることが、自分の中の中立的な第三者を介して是認される場合、それは、称賛されることが無くても満足をもたらす。そして、そのことに、大きな疑問は生じない。賢人と言われる人にとっては、称賛に値すること、つまり称賛の明確な自己是認だけが、愛好されるものとなる。そして、それは時として、他者の称賛を全く必要としないどころか、それを軽蔑さえするのである。また、この明確な自己是認を伴う行為を愛好することは徳の愛好に他ならない。

 われわれにとって、本当に恐怖と感じることは、憎悪や軽蔑されることではなく、憎悪や軽蔑されるべきものであることである。この感覚(良心)があるから、人は自分の悪徳を嫌悪するのである。この故に、その悪徳が完全に秘密にされる保証があったとしても、この良心の呵責、罪の意識から逃れることはできない。名誉と不評、悪徳と徳に対する感受性の完全な欠如以外には、この感覚(良心)から逃れることはできないのである。その感覚が、少しでもまともである限り、どんな環境でも、悪人は安息を得られないのである。そして、最も忌むべき犯罪の罰を受ける人は、第三者の非難と処罰に、同感して身を任せることにより、その良心の呵責を少しばかり軽減しながら処罰を受ける。
 
 実を伴わない称賛は、人類のうちでもっともつまらない浅薄な人を喜ばせる。だが、中程度以上の人にとっては、それはむしろ軽蔑の対象であり、そうでなくても大した精神的歓喜や苦痛を伴うことは無い。これに対して、実を伴わない非難(顕著な例は冤罪)は、中程度以上の人にとってさえ、最も恐ろしい苦痛を伴う。

 他人からの評価が、自分にとって重要であるかどうかは、全て、自分の適宜性への判断が正確であるかどうか(自身の判断力への自信)にかかっている。

 称賛と非難が表現するのは、われわれの性格と行動に関する他の人々の感情が実際にどのようなものであるかということである。これに対して、称賛にあたいすることと非難にあたいすることとは、彼らの感情が当然にどうであるべきかということである。また、前者への欲求は、同族から好かれたいという欲求を本源とし、後者への欲求は、自身をその正当な対象としたいという欲求を本源とする。これら二つの原理は、ほとんどの場合混同される。

 称賛を得ようと思うことは、主に弱さの現れである。しかし、非難を回避しようとする熱意には、弱さが無いどころか、時として、最も称賛に値する慎慮がある。

 外部からの称賛と非難は、法廷で言うならば第一審である。外部からの自然な称賛と非難は、その行為の適宜性を判断する上である程度の正しさを持つ。これが、称賛されること、及び、非難されることである。しかし、これでは十分とは言えず、第二審、つまり自分の中の中立的な第三者による審判が行われる。この良心による判決は、第一審よりも正しい。これが、称賛に値すること、及び、非難に値することへの判断である。しかし、時として、この中立的な第三者による判決も正当性を帯びないときがある。それは、外部からの特に非難が、第二審を撹乱する場合である。このときは、絶対的な最高法廷、つまり、それは神や死後の世界のような宗教的なものによる第三審が行われる。
 ※これ以後はキリスト教偏重の理論であって普遍性に劣るため本来、要約は必要ないが、自由主義思想の萌え目が見えるためこの部分だけ追記:(この来るべき世界(宗教的意味合い)では)身分や運命などの制限によって、公共の場にそれが知られることも無く、また本人すら気付かないような、謙虚な諸才能や諸徳が称賛される。これは非常に快適で、自尊心を満足させる教義である。

感想
 「名誉と不評、悪徳と徳に対する感受性の完全な欠如」をしてしまった人は、既に人ではないということかもしれない。浄土三部経に、地獄を解説する部分があるが、そこを読んだ時、まさに地獄は「かの国にあらず、この国にあらず」であると思った。この私の言いたいことを言おうとすると、私の時間の感覚を説明しないとならない。時間にも、ベクトルがある。今、私たちの感じている時間は、常に、一定方向であるが、実は、それと垂直方向にも時間がある。私たちが感じ易い方向にある地獄が、死後の地獄で、感じにくい方、横方向にあるのが現在の地獄である。そして、このふたつの地獄は同一のものであり、かつ無限に存在する。だから、浄土も同じように、最低でも現在と死後の二方向にあり、かつ同一のものであると私は考えている。ここで、アダムスミスが言っているのは、横方向の地獄のことだ。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120308/1331203887