アダムスミス 道徳感情論 要約7

第3部 われわれ自身の諸感情と行動にかんする、われわれの判断の基礎について、および義務の感覚について

第1章 明確な自己是認と明確な自己否認の原理について

 われわれは、自分自身の行動を是認または否認する際、中立な観察者の立場からそれを判断する。
 もしも仮に、誰との交流も無く成長した人物を思い浮かべると、このことが立証される。彼は、他の人に出会うまで、自分の見てくれの美醜を判断することはないだろう。しかし、彼が社会に出た時、彼は初めて、自分の見てくれの美醜を判断するのである。
 このように、われわれは第三者の観察眼を介することによって、われわれ自身を判断している。われわれが自分の境遇を一番良いと判断するときは、人々から愛される徳を自分が持っていると自覚するときであり、逆に、悲嘆にくれるときは、自分は人々から憎まれる対象であると自覚する時なのである。

感想
 なるほど、と思った。私もご多分にもれず変わり者であるが、間違いなく、自分への判断基準に第三者を介している。この、想像され、想像される第三者が、人間の「価値観」に大きく関わっているのだろう。例えば、熱心なキリスト教徒は、この第三者が常に神であるし、熱心な原理主義者においては、これが経典なのである。この第三者が何者かということが、人間個人の判断基準、その人の判断基準ということだろう。「万人の真のまなこ無き人に善しとされるより、一人の真のまなこ有る人に善しとされる方がはるかに価値がある。」(ダンマパダより)そういえば、荀子に「師に付くより速やかなるは無し、師について、その時代の礼を知らなければ、古い経典をいくら勉強しても意味が無い」というようなことが書かれていた。人間が社会で暮らす以上、礼は変化する、その中に普遍はあろうが、古びた判断基準に頼っていてはならないということか。
 では、悪人はと言うと、この第三者の判断基準を普通に持っていると思われる。だから、彼らは、その悪行を「隠れて、こそこそと」行うのだ。
 この判断基準の話は、非常につじつまが合う。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120308/1331203887