法律の本質2

2.法律の繁多化と法治主義の関係

法律は、現在、繁多化する傾向にあるみたいである。要は、「天網恢恢疎にして漏らさず」(天が規律する因果関係の網は、その網目は決して細かくはないけれど、何者をも漏らすことはない。悪いことをしたらその悪い報いを受け、善いことをしたらその善い報いを受けることになる)という老子思想は、現代のあくせくした人々に、どうしても受け入れることができず、止むを得ず網目を細かくすることばかりに走り、それで満足してしまっているということである。

しかし、これは仕方のないことでもある。というのも、現在の法治主義による国家制度では、条文にないことは裁定することができないことになっているからである。

これがどういったことかというと、A君がB君の悪口を言ったとする。これに対して、B君は名誉を明らかに傷つけられたとする。しかし、これは匿名性のある(実社会の個人を全く特定できない)オンラインゲーム上での話であった。 その名誉もあくまでゲーム内の世界でしか通用しないものであった。

こういった場合、この争いの裁定は、このオンラインゲームをしている仲間の間で行われるだろう。

「A君は悪口を言ったけど、B君は普段から横着だし、そもそもB君が悪い」とか、「A君は悪口をいうことを我慢していればよかっただけで、B君は悪くない」とかである。そうして、彼らの仲間、個人個人が彼らに各々の裁定を下すことになる。

だが、このオンラインゲームの仲間に裁判官がいるとこうなるのである。「そういったことは法律上定められていないので、裁定することができません。だから、私は裁定が仕事の裁判官ですが、何も裁定することはできません。(匿名性のあるオンラインゲーム上に国家が規定する法律はないし、そこでの名誉は現在人権に含まれていない)

しかし、もし仮に、B君の実生活の方に、証明できるような明らかな損害があれば、裁定できないことはないです。(この場合想定されるのは、実生活で精神面に異常を来して仕事を辞めたなど)ただし、最高裁まで審議がもつれ込むとは思いますし、費用は絶対に赤字で、数年間は仕事も学業もまともにできないことになります(これについては適当な意見、もし仮にオンラインゲーム上での名誉も人権に含まれるのかということに審議が及べば、憲法解釈問題となって最高裁までもつれ込まざるを得ないだろう)」

これが問答無用の法治主義であり、法律で規定されていないことを裁判で争うことは、ほとんど自分自身への実益をもたらさない。しかし、法治主義法源(裁定を下すために準拠するもの)は、あくまで、各種の成文法典であり、具体的な法律がない場合は憲法からの類推となり、これら制定法(文字としてしっかり書かれた法)でしっくりこない場合は判例(過去の裁定例)が法源となる。

そして、判例(過去の実際の裁判例)もない場合には、条理(われわれが普段使う「あの人は筋が通っている」とか言うときの「筋」みたいなもの)が用いられることとなるが、この条理こそ、われわれが普段最も用いている裁定の基準なのである。こういった意味でも、法律で争いを決着すること自体、普通の人の感覚と逆を向いているのである。(私法入門 有斐閣を参考にした)

また、このように、成文だけで繁多な争い事に対処しないとならないという原則があるから、法律も繁多な条文を用意しておかないとならなくなり、結果として法律はややこしくなるわけである。