アダムスミス 道徳感情論 要約9

第3章 良心の影響と権威について

 良心の明確な是認や、自分の中の中立的な第三者の証言が、それだけで、その人を満足させることはめったにない。だが、これらの影響と権威はあらゆる場合に極めて大きい。そしてまた、この良心によってのみ、われわれは自他の利害関係の正当な比較を行うことができるのである。
 遠くの山が小さく見えるように、関係のない全く知らない人の不幸は自分にとって大したことではない。目の前にあるカーテンが大きく見えるように、自分の不幸はこれ以上なく煩わしい。この格差は、視覚の場合だと経験と計算とによって、感情の場合だと知識と経験とによって、知らず知らず自然に是正され比較検討される。
 そのゆえに、自分の小さな苦難のために、多くの人を犠牲にするという選択は多くの場合否定される。それは、慈愛と言う滅多に持ち得ない小さなものがそうさせるのでなく、良心によるこの比較是正が行われることによって為される判断である。
 この特に苦難への比較是正には、極端にすると二種類のやり方がある。一方は、他者の苦難に同調しようとすること、これをすることは、毎日いつも陰鬱な気持ちでいることである。他方は、ストア哲学のように、例えば、人の息子が死んだ場合にしか感じない程度の落胆に、自分の息子が死んだ場合に感じる落胆を近付けることである。だが、これらは、尊敬に値するかどうかは別として、人類の自然な秩序、および適当な適宜性からは逸脱している。

感想
 ヨーロッパ人にとって、ストア哲学は、例えば、日本の儒学に近いものがあると思った。それは、どちらかと言うと内向きでとても自分に厳しい。アダムスミスは、ストア派哲学に間違いなく、好感・愛好を持っている。客観的に、今までの理論的に、完全にストア派が正しいと言いきれないと私が感じる所でも、それを徳だと称賛する時もしばしばである。ストア派哲学について勉強する余地と価値はある。


 この感情の遠近法によって、つまり、自分に近いことによって、その感情が適宜性の枠を越えがちな場合は次の二つである。自分の家族や友人の不幸による悲嘆、また、自分自身への直接無媒介に作用する諸不幸による悲嘆である。
 前者、例えば、親子の自然な感情は、それが過度であったとしても基本的に是認され、不自然に無関心な場合は非難の対象とさえなる。これに対して後者では、過度であることはむしろ非難され、耐え忍ぶことは是認される。(前者はストア哲学の否定であり、後者はストア哲学の肯定である。)

感想
 集中できない。
 というか、あまりにも成果(その成果とは経済学への理解なのであるが)が出ないため、この本を読んで理解することが苦痛になってきた。しかも難しい。さらに、ここでやっと、もうすぐ半分が終わろうとするところ(岩波文庫の上下巻のうちの上巻があと少しで終わる)と思うと、さらに先が思いやられて苦痛を感じてしまう。
 しかし、私は、こういった本を読む時常に思うのだが、この本は、私よりはるかに賢いであろう人が、一生をかけて書いた本なのであって、それを簡単に理解しようとすること自体が道理に合わないこのとなのだ。だからこそ、少しずつ理解するこの方法、つまり、毎日少しづつしっかり理解する方法を用いているのでもある。
 これだけの研究を、そしてこれだけの成果の出にくい研究を、最後までやり通したアダムスミスはやはり尊敬に値する。


 自らの身に諸不幸が起こった場合、来訪者は、その悲嘆を緩和する。この場合、それが親密である人ほど、自己規制(悲嘆を我慢すること)の度合いは弱い。あまり親密でない人が来ると、その自己規制(男らしい顔つきをすること)は強くなる。そして、社会と言う学校で、自己規制の勉強をした賢明正義の人は、この自己規制をあらゆる場合に保持するのである。そして、この保持は、その人にはるかに明確な自己是認と言う報償を与えるのである。


 自分への判断を完全に中立的な観察者に固定しようとすること、つまり、自己規制は、少なからずの精神的困苦を伴う。また、自然な自分の感情に身を任せることは、非常に大きな償いを与える。しかし、後者のみでは完全な満足を得ることができない。(ここで、前者を“彼”とし、後者を“彼女”としている。)
 永続的な苦悩は続かない。苦悩または享楽は受け続けると、それが通常の平静なものとなる。もし、片足を失った人がいるとしたとき、彼は、その状態が長く続けば、そのことを大したことと思わなくなる。また、王にとってさえ、「征服が全て終わった時、あなたは何をしますか」という問いに対して、「一本の酒で友と楽しむ」と答えるのである。
 人間生活の大きな悲惨と混乱は、この「あってしまえばそれは平静なものでしかない」という真理に対する勘違いから起こる。また、現在の境遇と感嘆されるべき境遇との実際の精神的満足度の違いを過大評価することからも起こる。富を得ようとする貪欲、地位を得ようとする野心、名誉を得ようとする虚栄は、一度得てしまえば、永続的な享楽を何ももたらさないものに過ぎないのである。


 何か諸悲運が起こった時、救済策がある場合と無い場合では、その感情的対応が違う。前者において、人はなかなか平静さを取り戻そうとしない。これに対して、後者の場合、悲嘆はそのことが起こった時が最も強く、あとは時間とともに緩和されていく。誰か大切な人が死んでしまったような場合や片足を完全に失ってしまった場合がこれにあてはまる。
 救済策があるが、それがほとんど実行される余地のない場合、例えば、王位から転落し、それの復位が常に期待されるような場合や、死んだ人は生き返るという証言を聞いてしまった場合(これはスペインのホアナとフェリペを例に出している)、むしろ、その救済策があることが、悲嘆を継続的で苦痛なものとする。  

感想
 この辺りの内容は難しい。それもそのはずで、第六版で追加された部分であって、アダムスミスという賢哲をして、やっとその晩年に発見した感情原理なのである。私が考察に及んだことのないことである上に、私自身が、その感情論理を体験していない(体験できていない)し、さらに観たことすらない、気付いたことすらない可能性が非常に高い。そのため、時間はかかるのだが、焦らずに一日に今までよりも少しの部分しか読解しないことにしようと思う。


感想
 なぜこのあたりを解読できないのかわかってきた。アダムスミスは、その類い稀なく偏見なき観察眼により、自己規制(感情の抑制・我慢)というとても内向きな徳を他人の感情と結びつけているのだ。これは私にとって全く新しい発想であり、多くの人にとってもまたそうであろうと思う。私が怒りの感情を未だコントロールできないのは、このあたりに理由があるのかもしれない。
 感情を抑えるためには大きく二種類があるように思う。一つ目がその感情を抑えつけること、全く無視すること、全く感じないようにすること、である。一人独座したり、山にこもったりして、その感情から遠ざかることにより、その感情を感じなくする方法で、釈尊に例えると、出家して二人の師を後にしてひとり瞑想や苦行にふけっていたときの方法と言えそうだ。人と会わぬようにして、その感情を他人から隠すということもこの方法に類似する。
 そして、二つ目が、他の人や生き物に接することによって、その感情を感じ尽くすことであるように思われる。当然こちらの方が難しい。ともすると、他人のその感情に全く同感して流される可能性もあるし、他人がその感情に流される姿を見てそれを理知的にも肯定してしまうかもしれない。つまり、理知的にその感情の不適宜な高揚を排除しつつ、その感情を感じ尽くさないとこの方向からの我慢はできないのである。釈尊に例えると、悟りを開いた後、托鉢と説法を行って人と多く交わったときの方法と言えそうだ。
 つまり感情にも、「あるけどない」「∞×0=a」という、私の言う空理や無量と言われるものがあるように思われる。感情が無くなったら人間ではない。だが、理知を無視して、感情に身を任せきることも人間ではないのである。


 ふた組の徳、すなわち、誰か自分以外の人に同情しようとすること(人間愛)と、誰か自分以外の人からの同情を受けようと自分の感情をコントロールすること(自己規制)は、どちらも徳であるものの必ずしも同一のものではない。人間愛にあふれているのに優柔不断で柔弱に過ぎる人、または、果断で男らしく勇気に満ち溢れているのに人間愛に乏しい人というのはよく見られる。
 そして、前者は順境で、後者は逆境で育てられやすい。このことにより、このふた組の徳は、その訓練においてどちらかがどちらかを害する関係でさえある場合がある。このふた組の徳を同時に併せ持つことが最高の徳と言える。

 孤独は、悲哀・歓喜、双方を強く感じさせる。
 だが、われわれは孤独であってはならない。われわれは、悲哀に同情してくれる同胞に甘えるどころか、見知らぬ人に接すべきであり、敵と同席して自分の感情が害されていないということを見せつける優越感を感じるべきである。また、自分の幸運を分かち合う同胞と歓喜をともにするどころか、自分の行動と性格によって自分を認めてくれる人と居るべきであり、以前は上位者であった現在対等な人の中で自分の謙虚さと幸運で頭が狂わなかったことを見せつけなければならない。

感想
 この辺りは、章としてのまとまりや脈絡が無いような気がする。つまり、アダムスミスが時折書いたメモや文章が推敲され、ある程度関連性のあるこの章に配されたのではないかということだ。


 道徳感情の適宜性それ自体は、中立者が遠くに居て、援護者が近くに居るからと言って(善を逸脱して)狂わされるわけではない。
 例えば、戦争において、当事国以外の中立的な国は遠くにある。だが、この当事国間では、お互いがお互いを、道理を無視して排斥する意識関係にある。その結果、大衆の多くは、道徳に逸脱したこと(自分側に有利な詐術の成功や国際法の侵犯)を称賛する。だが、その当事国間に、ある一賢人がいて、自国の詐術や法の侵犯を非難したとする。彼は、同胞の国民からむしろ非難され排斥されるであろうが、彼の道徳感情の適宜性は決して間違っていないのである。

感想
 かなり文章を変えて要約した。アダムスミスの戦争に対する非難の心や、戦争を体験していることによる切実さが、ここの内容を分かりにくくしてしまっていたようだ。その分、彼の戦争への非難の気持ちは伝わってきたのだが、その気持ちは割愛させてもらった。


 分派と分派主義は、道徳感情を腐敗させる上で格段に最大のものであった。例えば、カトリックプロテスタントの争いがそれに相当する。分派が起こると、戦争同様、中立的なある一賢人は、どちらからも距離を取った中立的な立場に孤立するわけだが、彼は、軽蔑と嘲笑の的となるのである。
 われわれが、自己規制について、彼に尊敬の念を抱く場合、彼が、無感受なのではなく、大きな苦しみを受けた上でそれを克服している必要がある。例えば、痛みを感じない人が、痛みに対してなんとも感じなくても、それは尊敬の念に値しない。
 だが、例外的に、ちょっとしたことで気絶してしまうような神経が異常に薄弱な人のそれが治るかどうかということは疑われても良い。

感想
 アダムスミスも、分派と党派の争いの中で随分苦労したのだろうなと思う。現在の日本のネット界では、右翼と左翼(実際にいるのか疑問)が分派と党派争いをしているのだが。ここにおいて、中立的な人とは常に軽蔑と嘲笑の対象になっている気がする。(しかも、実存していない仮想敵:左翼として)賢人というのは、この「達せる者少ない」世の中でいつもそうなってしまうのかもしれないと思った。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120308/1331203887