155.荀子 現代語訳 解蔽篇第二十一 七章

七章

 人は何によって道を知るのだろうか。

 答えて、心である。

 では、心は何によって道を知るのだろうか。

 答えて、心が、虚・壱・静であることによって道を知ることができる。

 心は、いつも何かを蔵している。(心は奥底に何かを秘めていし、心の見えたり感じたりできる部分以外にも、心には常に何かがある)そうであるけど、心には「虚」という状態がある。(表面的に心に何もないと感じたりすることはあっても、実は心には何かが蔵されていてる場合がほとんどである。だけど、心には心の内に何も隠れていない「虚」という状態がある)

 心は、いつも満たされていない。(心は満たされているようであっても、常に何かを求めている)そうであるけれど、心には「壱」という状態がある。(表面的に心が満たされているように感じて、心に何の欠落もなく、心に部分がなくて心が常に全体であるように感じることはあっても、実は心が満たされていないという場合がほとんである。けれども、心には心自体が全体となって一つとなる「壱」という状態がある)

 心は、いつも動いている。(心は静かに動いていないようであっても、何か向かって動いている)そうであるけれど、心には「静」という状態がある。(表面的に心が静かであるように感じて、心に動きがなく、心が一つ所から動いていないと感じることはあっても、実は心が動いているという場合がほとんである。けれども、心には落ち着いている「静」という状態がある)

 人は生まれれば知力(何かを見分けたり何かを覚えたり何かを判断する力)があり、知れば(知力が使われれば、その集積が起こって)志があることになる。そして、この志というものが心に蔵されているものである。そうであるのに、心に「虚」の状態があると言うのは、心が何かを受け取る時に、この蔵されているもの(志)が、何ものをも害うことがないことで、これを心が「虚」の状態であると言う。(心に何もない状態のことを心が「虚」であると思いがちであるが、実は、心が「虚」の状態とは、既存の知力の集積である志(固定観念や自分の固執している信念)が、感受することに干渉しないことである。志によって蔽われることがないこと)

 心が生ずると知力があり、知れば異が生まれる。(知るということは、これをこれ、あれをあれ、こちらは白でこちらを黒と心に認識させることである。だから、この異なるものを心に認識させる知の作用を「異」と言う)異というものは、同時に兼ね合わせて別のことを知ることである。同時に兼ね合わせて別のことを知るのなら両ということになる。(両端がある、これとあれ、暑いと寒い、近いと遠い、黒と白、黄と黒、甘いと辛いなどの少なくとも二つ以上の極を心が同時に認識することになる。)そうであるのに、心に「壱」の状態があると言うのは、この一によってかの一が害われないことで、これを心が「壱」の状態であると言う。(心に欠落が無くて満たされ、心が一つのものになっている状態を心が「壱」であると思いがちであるが、実は、心が「壱」の状態とは、二つ以上のことを同時に認識して、また片方が片方への認識に干渉しないことなのである。一によって蔽われることがないこと)

 心は寝ているときでも夢をみて、ゆるがせになっていれば勝手気ままに動いて、心を使うときは謀ることになる。だから、心は常に動いている。そうであるけれど、心が「静」の状態にあると言うのは、夢劇(心が勝手に行う妄想)によって知が乱されないこと、これを心が「静」の状態であると言う。(心が静まっていて動いていない状態を心が「静」であると思いがちであるけれど、実は、心が「静」の状態とは、妄想や思いこみや願望や感情という知力以外の心のはたらきによって、知力が干渉され乱されていないことなのである。知以外の心の働きによって心が蔽われていないこと)

 まだ道を得ていないくて、道を求めている人には、虚・壱・静であることを説いて、それを法則とさせる。これから道に入ろうという者が虚であるならば入ることができて、これから道に仕えようという者が壱であるならば尽くすことができて、これから道を思う者が静であるならば察する(細かいことまで思慮を巡らし細かいことを観察する)ことができる。道を知り察して道を知って行うなら道を体現した者である。虚壱にして静であることは、これを大清明と言う。

 万物は、形として常に形として見ることができ、形として見ることができればそれにそった意見と理論ができることになり、意見と理論ができれば何らかの地位を占めることになる。

 部屋に居りながら世界中を見て、今に居ながら久遠にそった意見と理論を立てて、万物を全て知ってその情(ありのままの情報・既にそこにある感情)を知り、治乱に参加しそれを比較してその度(測ること、また測ってちょうどよい所を知ること)に通じて、天地に緯度と経度で区切って万物に役目を与え、大理を制御統括して宇宙をも包む。

 隙間なく広々としたこと、誰がこの極みを知ることができようか。光り輝いて広々としたこと、誰がその徳を知ることができようか。至るところから湧き出てること、誰がその法則を知ることができようか。

 その知見の明(明らかで蔽われていないこと)は日月にも匹敵して、その大なることは八極にまで満ちている。これを大人と言う。どうして蔽われているようなことがあるだろうか。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■この文章自体の解説は、本文中に(  )書きとして、補足を入れておいた。

孟子公孫チュウ章句上、第二章より抜粋
「敢えてお尋ねしますが、先生の心を動かさないことと、告子の心を動かさないこととについて教えて頂けますか」
「告子は、言葉として理解することができなくても、心にそれを求めてはならない。心に納得ができないことでも、気にそれを求めてはならない。と言う。これについて、心に納得ができないことでも、気にそれを求めてはならないということは、よしとすることができる。しかし、言葉として理解することができなくても、心にそれを求めてはならないとは、よしとすることができない。志とは気を率いるものである。気とは体を総べているものである。志が至れば、気はこの志に次ぐものとなる。だから言うのだ、志を守って気を害うことがないようにと」
「既に志が至ると気はこれに次ぐものになるとして、この志を守ることで気を害うことがないようにということは、一体どういったことですか」
「志が専一であるならば気を動かして、気が壱であるのならば志を動かすのだ。例えば、走っていてつまづくようなことは気の作用である。しかし、つまづいたことは心に変化をもたらす。(だから、つまづかぬような志を心に蔵することで、気を守り、気を守ることがまた心を動かさないことにつながる)」(結局、詳しく述べたことは、告子との違いでなく、告子との共通点である。しかし、心のうちにある志を言葉で理解することによって守ることが、この話の主題である)
荀子と比較すると、心を虚・壱・静にすることの具体的なやり方を明示している点で、荀子の方が孟子に勝っている。しかし、荀子の欠点は難しいことで、足をつまづかす例えなどの簡単なイメージで伝えている孟子の方がその点では優れている。

■大学・経一章より
「止まることを知ってから定まるところがあり、定まることができてから静かにすることができ、静かになってから安んずることができ、安んずることができてから慮ることができ、慮ることができてから得ることができる」
荀子の心のはたらきの話に関連は深いが、少し別の角度から心の、虚・壱・静について述べている。また、この止まるところというのは、荀子の修身篇に記されているし、また、この解蔽篇で説明されていることであるとも言える。