154.荀子 現代語訳 解蔽篇第二十一 五・六章

五章

 昔、遊説を行っている食客のうちでも特に蔽われていたのが、諸子百家がそれである。

 墨子は実用に蔽われて文飾を知らず、
 宋子は寡欲主義に蔽われて得ることを知らず、
 慎子は法に蔽われて賢いということを知らず、
 申子は権勢のことに蔽われて知ることを知らず、
 恵子は言辞に蔽われて実際を知らず、
 荘子は天に蔽われて人を知らない。

 実用をよりどころとして、これを道とすれば利を尽くすことはできる。
 寡欲であることをよりどころとして、これを道とすれば満足を尽くすことはできる。
 法をよりどころとして、これを道とすれば数術を尽くすことはできる。
 権勢をよりどころとして、これを道とすれば便利を尽くすことはできる。
 言辞をよりどころとして、これを道とすれば論理を尽くすことはできる。
 天をよりどころとして、これを道とすれば因果を尽くすことはできる。

 しかし、これらのものは、道の一端でしかない。本当の道というものは、全てのことに常に対峙して万変に対応するのだから、一端だけではこの本当の道を行うには不十分である。

 曲知の人(蔽われて偏った知に頼っている人)は、ものごとの一端しか観ていないのに、しかもその一端のことも全て知っているわけではない。この故に、その一端の道のうちで足らない部分だけ補えば十分であると勘違いして、この一端の道を飾り、内では自分自身を乱して外では人を迷わし、上に居れば下を蔽って下に居れば上を蔽う。これは蔽塞の禍というものである。

 孔子は、仁知でしかも蔽われることがなかった。だから、多くのそれ一つだと乱れた術を学んで、そうして先王の道を行うことができたのである。こうして、儒家という全ての道を兼ねた道が挙がることになり、これを用いて習い積み上げてきたことに蔽われることがなかった。だから徳は周公と等しく、名は三王とさえ並んで称される。これが蔽われないことの福である。

六章

 聖人は、この心術(心の巡らし方)の患いとすべきことを知って蔽塞の禍を知る。だから、欲することもなく嫌悪することもなく、始めなく終わりなく、近いこともなく遠いこともなく、博識であることもなく浅識であることもなく、昔でもなく今でもなく、万物を兼ね集めてその中ほどに衡(つり合い)を取る。こういったわけで、多くの異なった道同士がお互いに蔽うことなく、倫理を乱すこともない。

 何を衡と言うのか。

 答えて、衡とは道である。だから、心は道を知らないというわけにはいかない。心が本当の道を知っていないならば、本当の道をよしとしないで、本当の道でないものをよしとすることになってしまう。自分の思いつきのままにしようとしながら、自分のよしとしていないことを守って、その上でよしとしていないことを善しとすることなどできるだろうか。(全てのことは自分の心のままに捉えるのだから、結局、本当の道を得ていないと、それ以外の道に知らず知らず傾倒することになってしまう。)本当の道をよしとしない心によって人を選べば、必ず不道の人と気が合うことになって、本当の道の人とは気が合わないことになる。本当の道をよしとしない心のままで不道の人と道人について議論するならば、これは乱れの本である。これがどうして知だと言えようか。

 心は、道を知ったその後で道をよしとして、道をよしとした後で、道を守って道でないものを禁ずることができる。本当の道をよしとする心とともに人を選ぶならば、本当の道を知る人と気が合うことになって、不道の人と気が合わないことになる。本当の道をよしとする心によって、道ある人とともに不道について議論することは、治の要である。これを知っていれば、他のことを知らないことを患いとするまでもない。だから、治の要は道を知ることにあるのだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885



解説及び感想

■かなり難しいと思うが、それであるが故にとても大事なことだと思う。次の章はさらに難しく、今回も少し言葉を補ったけど、さらに言葉を補わないと分からなさそうである。