嫉妬が起こる場合と起こらない場合

嫉妬が起こる場合と起こらない場合について考察してみた。(下の方に解決策も)

多く妬まれる素質(多くのもの)を持っている人が常に妬まれる対象ではない。何も持ってないない人も時として妬まれる。それはどういったことかと、前から不思議に思っていた。

アダムスミスによると、多く持つ人というのは、基本的に、称賛と歓喜の対象となる。昔で言うと、王が良いたとえである。今で言うと、芸能人が一番近いかなぁと思う。

それで、どうなると妬まれやすいのか、ということが分かったのだけど、つまり、共有しているパーソナル世界が多いと妬まれやすいと思われる。芸能人とか王は、いわば、別世界の人間で、共有している世界が少ない。だから、多くを持っているの妬まれるということがない。また、同じような環境にいたとしても、感性が離れていれば妬まれることはないと思われる。

パーソナル世界、という概念は、ある特定の個人AさんとBさんがいた場合、Aさんが認識している世界とBさんが認識している世界は同じようで違う。という意味だ。Aさんにとって気持ちいい青空は、Bさんにとってはすがすがしい青空であり、こういった意味で、個人同士は、同じ風景を見ながら、お互いに違った風景を見ていることになる。

だが、Cさんがいて、Cさんが、Aさんが見るように気持ちいい青空を見て、Bさんの見るようにすがすがしい青空を見た場合、Cさんは、AさんとBさんとの二人と同じパーソナル世界を共有していることになる。

この場合だと、Cさんは、AさんとBさんから妬まれる可能性があるが、AさんがBさんを、BさんがAさんを妬む可能性はほとんどない。さらに言うと、Cさんが突き抜けるような青空を見るという、AさんとBさんの持っていない世界を持っていると、さらに妬まれる可能性が高まる。

つまり、感受性が強く同感力に長けている心やさしい人ほど妬まれる可能性が高いと言う結論が導き出されたということだ。

だが、例えば、ダライラマとかは、妬まれるということがあまりなさそうである。あれほど、同感力に長けて、感受性が強く、親近感も湧く、すなわちパーソナル世界の大部分を共有しているのに妬まれる対象ではないのは何故か。それは、慈愛があるからであろうし、ダライラマのパーソナル世界は、かなり広くて、そういった意味で違う世界であるからだと思う。

2013.5.9追記

ちなみに、妬まれやすい人と嫌われやすい人は全くの別物である。いつも自慢話ばかりして、それに嫌みがあるのなら、それは単なる嫌われやすい人でしかない。これは妬まれているのでなくて、嫌われているのである。妬まれるとは、人に嫌われるようなことをしていないにも関わらず、人から嫌がらせ受けたり、陰口を叩かれたりすることである。

で、結局、妬まれやすい人、というのは、妬まれる可能性も高いわけだけど、味方が多い可能性が高いことになる。というのも、同感力に長けて、感受性が強く、親近感も湧くならば、これは人から好かれるほとんどの項目に当てはまるからである。だから、妬まれていると感じる人は、自信を持って、自分の味方の人と一緒に居ればいいと思う。味方が居ないのなら、それは一時的なことであろう。その妬んでいる人と少し距離をおくのが得策と思う。

2014.8.11追記

学問のすすめ13編の「怨望」もこの記事と関わりが深いです。
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121130/1354276259
やっぱり、「怨望の人」や、「真珠をやると噛み付いてくる豚」だけには気を付けないとならない。関わらないのが一番いいだろう。恐らく、その人を無視すれば、他の人からも無視されてしまうかもしれない。しかし、それを気にする必要はない。なぜなら、その人と関わることによって起こる「実害」の方がはるかに多いからである。

2014.9.2追記
この記事を読んでくださる方は結構いらっしゃるようです。この記事だけでは納得ができないという方、中でも特に憎しみの感情に囚われている方はこちらもどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20140611/1402453269

最終手段 keigossa☆yahoo.co.jp ここまで読んだ人は相当に悩んでいらっしゃるのでしょうし、お気軽にどうぞ^^