アダムスミス 道徳感情論 要約 6

第3篇 諸行為の値打ちまたは欠陥に関して、人類の諸感情に偶然性fortuneが与える可能性について

序論

 称賛または非難は、A.心の意図または意向(動機)、B.身体の外的行為または運動(ただ単に右腕を動かすとか、何のためにということはAになる)C.その行為によって起こった結果、この三つのどれかに必ず帰属する。
 そして、本来値打ちや欠陥の評価を受けるべきものは、Aのみである。つまり、慈恵的な諸動機で行った行動は値打ちがあるし、悪意で行った行動には欠陥があると評価されるべきである。しかし、事実としては、そうではない。なぜそうなうなのか、これからの議論で、第一にそれを引き起こす原因、すなわち、それが自然がそれを生み出す機構を、第二にそれの影響の範囲を、そして最後に、それが役立つ目的を明らかにする。

第1章 偶然性のこの影響の諸原因について

 何か、ものや動物に感謝の念を抱いた場合、その感謝は受け取られることはない。このことにより、そういった感謝は完全に快いものとは言えない。つまり、感謝の対象が人であれば、その人は感謝に対する報恩を受け取り、また、感謝の正当な報償を受けたことに対する満足を感じ、報恩した人はこの満足に同感することで快さを得るのである。憤慨についても同様のことが言える。
 つまり、感謝や憤慨の完全な対象とは、その対象が、1.快楽か苦痛の原因であること、2.同じemotionを感じられること、3.意図してその結果を生み出していること、でなければならない。しかしながら、これらは結局のところ、感謝または憤慨を受けた人が、快楽または苦痛を得るかどうかということに帰結する。
 このため、快楽または苦痛を受けるかどうかということが、諸動機を差し置いて、感謝や憤慨の要因となるのである。

感想
 少し理論の無理くり感を感じてきた。というか、素直に考えればよいことも、話の流れから、そのようにするしかなかったとも考えられる。それか、日本とイギリスの、「感謝」に対する概念の違いがあるかもしれないと思われるところもあった。日本は八百万の神の風土だから、ものに感謝を感じることは普通である。その感覚には、私が少し特異な人間であるということを差し置いても、一般的な日本人の感覚があるように思う。あと、もうひとつ、仏教を学んでいると、全ての原因を、自分の方に向かわせるという特異性があることにも気付いた。スミスの論理では、苦痛や快楽の原因を、他のものに求めるところがある。しかし、仏教の因縁や原因と結果の法則、私の言うところの因果率では、それらは全て自分の諸行動に帰結させられるからである。こういった自分と人との違いを知ることが、対話ということかもしれない。対話としても、哲学的思考対象としても省察の余地あり。

第2章 偶然性のこの影響の範囲について

 最もほめるべきあるいは非難すべき意図から生じた諸行為が、その目指した諸行為を生み出すのに失敗した場合に、それらの行為のうちのわれわれの欠陥または値打ちの感覚を減少させる。以下はその具体例。
 われわれにとっての恩人とは、本来、われわれに最善の意図を持ってして接してくれる人である。しかし、その意図が現実の諸効果として達成されない場合、われわれの彼を恩人と思う気持ちは減少する。
 何らかの才能は、それ自体で讃美されるべきである。しかし、その才能が現実として発現しない場合、それは称賛されない。例えば、ナポレオンやアレクサンドロスより、才能のある人がいても、その彼は称賛されることは無い。
 犯罪は、それが企画で、全く遂行されなかった場合、ほとんど処罰の対象とならない。この例外として、調和(社会、または国家)への反逆はその企図のみで処罰の対象となる。
 犯罪を企て、犯罪を犯すことを決心するが、それが何らかの偶然性により達成し得なかった場合、人は、その犯罪を企てたことを反省悔悟し、それが達成されなかったことに感謝すらする。
 諸行為が偶発的に、異常な快楽または苦痛をひきおこした場合に、それらの値打ちまたは欠陥の感覚を、それらが出てきた諸動機または諸意向にふさわしいところを越えて増大させる。
 例えば、悪い知らせを持ってきた人をわれわれは無条件に嫌悪する。これと反対に良い知らせを持ってきた人に対しては、ときには、例外の報償さえ与える。
 怠慢・過失negligenceに与えられる処罰。1.例えば、公共の道路に石を無差別に投げる行為は、危害を与えなくても処罰の対象となる。2.何の悪意も無いが、それによって何らかの危害が発生する場合。3.悪意がないことはもちろんのこと、全くの偶然性によって何らかの危害が発生する場合。

第3章 諸感情のこの不規則性の究極原因について

 何か悪い企図が、それが直接処罰の原因とならないのは、もしそれが行われるのなら、糾弾はとりとめのないものになるだろうからだ。また、悪い企図をしてから、実際の悪い行為は行わない、良心への執行猶予も無くなってしまう。
 また、何か良い仁愛的な諸意向が、直接報償の原因とならないのは、それが実際に行われなくても満足されてしまうからである。この仁愛的諸意向が、その諸意向だけで満足されないから、それを満足しようと人は努める。
 こうして、諸企図だけが、自然には処罰や報償の対象とはならないことによって、人は、その諸企図を正しく見れる人間になろうと努力するのである。つまり、悪い意向を持った人間を真の悪い人間と、そして、真の良い意向を持った人間を真の良い人間と見ようと努力するのである。

感想
 つまり、この一見不規則な「諸意向のみに値打ちや欠陥が見出されないという“自然な感情”」を、合理性として理解している。また、要約には示さなかったが、これは、「神」という絶対的創造物を介して論示されている。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120308/1331203887