アダムスミス 道徳感情論 要約 4

第2部 値打ちと欠陥について、あるいは報償と処罰の対象について

第1篇 値打ちMeritと欠陥Demeritの感覚について

序論
 今までの議論では、行為の適宜性及び不適宜性(つまり、他者との比較や他者の判断に依存するもの)について論じてきた。そして、この行為の適宜性及び不適宜性は、「その原因と関係」、「目的とそれが生み出す効果」の二つによって判断されていた。
 ここからは、その行為自身が及ぼす結果、直接的に受ける報い、これらのよい悪いを判断する感覚がどこにあるのかについて議論する。

第1章 感謝の正当な対象であるように見えるものは、すべて報償にあたいするように見えること、また同様にして、憤慨の正当な対象であるように見えるものは、すべて処罰にあたいするように見えること

 われわれが愛loveや尊厳esteemをもってして誰かの幸福を見る場合、それはそれで満足する。だが、われわれが感謝gratitudeをもって誰かの幸福を見る場合、それが自分の手助けによるものでないと満足することができない。
 われわれが憎悪hadretや嫌悪dislikeをもってして誰かの不幸を見る場合、それは徳を侵害するのであるが、ある一定の満足を得る。だが、われわれが憤慨resentment(:公正さを侵害されたことによる怒りの感情、またそれに伴う復讐心)をもてして誰かの不幸を見る場合、満足を得ることはできない。彼が、その公正さを侵害したことに対する当然の報い、例えば激しい後悔やそれと同じ困苦を受けるべきであると感じるからである。

感想
 愛と感謝、憎しみと憤慨、この同じような感情を、「報いreward」の概念を用いることで峻別している。しかるに、私は感謝という感情をあまり持ち合わせていないと思う。私にとって、人にいいことをすることは義務であり、それに対する見返りははじめから期待していないからだ。そうして、自分がそう思うことによって、他者に対してもそれを義務としてみなしているのだろう。何かいいことをすることを義務と考えつつ、人から為された場合、それは義務で無いと考えることが重要なのだろう。

第2章 感謝と憤慨の正当な諸対象について

 感謝と憤慨の正当な諸対象とは、多くの人にとって、その諸対象が感謝もしくは憤慨の正当な諸対象と同感されることである。また、われわれは、この諸対象に対して、大きな想像力を持って介入する。例えば、感謝に関しては、鶴の恩返しの話を思い起こすと、また、憤慨に関しては、もはや死んでしまった人の復讐(幽霊・怨霊)について思い起こすと、われわれがどこにどれだけ想像で同感しているのかよくわかる。

第3章 恩恵を授与する人物の行動について、明確な是認がないばあいは、それをうけるものの感謝に対する同感は、ほとんど存在しないということ、そして、反対に、危害をあたえる人物の諸動機について、明確な否認がないばあいは、それをうけるものの憤慨にたいして、いかなる種類の同感も存在しないということ

 とるに足らないくだらない理由、たとえば彼がお気に入りであるとか、そういった理由で彼に恩恵や報償が与えられ、彼がそのことに感謝したとしても、そこにわれわれの同感は存在し得ない。また、相敵対する双方について、どちらかにわれわれが肩入れする場合、そのもう一方の憤慨に同感することは稀である。

感想
 前から感じていたけど、章題だけで十分要約とも言える。

第4章 先行諸章の要約

 報償や処罰の正当な対象と思われる者とは、何者かがその彼の行為によって恩恵または侵害を受けたかどうかではない。むしろ、その行為の諸動機が、恩恵においては是認、侵害においては否認できるかどうかである。つまり、報償や処罰に値する行為とは、その動機において、誰からも同感されるものに違いないのである。

第5章 値打ちと欠陥についての感覚の分析

 値打ちについての感覚the sense of meritsは、その行為をする行為者に対する諸動機などにおける是認の同感と、その行為によって恩恵を受ける人への、感謝に対する同感の複合感情である。
 欠陥についての感覚the sense of demeritsとは、その行為をする行為者に対する直接の反感と、その行為によって侵害を受ける人への、憤慨に対する同感、もしくは同胞感情fellow-feelingsの複合感情である。
 ただし、憤慨に関する同感は、それが適度に抑えられた場合のみ起こり得る。
*ここに長い注が入っているが、内容が難しい。概略を示すと、この値打ちと欠陥についての感覚が、人間と言う不完全被造物に内蔵されていることについて述べている。例えば、憤慨とは、それが過度な場合同感を受けないばかりか、その憤慨自体が憤慨の対象になる。つまり、憤慨が人類にとって害のあるものであるという感覚が内蔵されているからこそ、ほとんどの人は、強い憤慨に同感しないのであり、憤慨と言う感情それ自体が否認される。

感想
 しかるに、私は、憤慨の度が過ぎることがままあるように思う。私からすると、なぜ怒らないんだ?ということが良くある。そもそも、私が、正しい人が損をしない社会を実現したいと思う動機の一つにこの憤慨がある。侵害された正しい人は、憤慨することもせず、それを受け入れる。または自分の受けた侵害にすら気付いていない。この不正それ自体への憤慨と、不正を受けた人への同胞感情から、私の中にそのような憤慨が起きるわけだ。こうして考えてみるに、プラトンが国家篇で、怒りだけを別の感情として捉えたことも納得できる。ただし、私の研究から、憤慨とは常にある範囲内で起こるものである。つまり、「この範囲を守りたい」という気持ちに反することが起きた場合、それに対して憤慨の念が起こるのである。簡単に言うと、「自分の命を守りたい」と思っている人の生命を侵害しようとすると、彼は怒るのである。しかしながら、この守りたい範囲を最大までにすると、やはり、憤慨自体が侵害の感情であって、ダライラマの言うように、怒り憎しみを征服する者こそ真の英雄なのである。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120308/1331203887