アダムスミス 道徳感情論 要約10

第4章 自己欺瞞の本性について、および一般的諸規則の起源と効用について

 中立的な観察者が遠くに居ても居なくても、われわれの道徳感情の適宜性それ自体は変わらない。だが、半面、われわれの情念は、彼が近くにいようがいまいが、彼の正当な適宜性を無視して暴走するのである。この情念が暴走する場合は、大きく分けると、その行為を行う前と行為をしてしまった後に分けることができる。だが、いずれの場合でもわれわれの見解は非常に一方的である。
 われわれ自身の諸情念の激高は、われわれを、常に自分の世界に呼び戻す。そして、そこではすべてが自愛心によって拡大解釈され、他人から見えているであろうような状況とは違う、曲がった現実が見えてしまうのである。
 行為が終わったあと、その諸情念への観察は、普通、後悔と悔悟という後味の悪いものを残すばかりである。なぜなら、自らの手で、自分の腹を裂く大胆な外科医など滅多にいないからである。自分自身の非を見ないために、過去の不適宜性を肯定するために、われわれは、時として、過去の激しい情念を遺体を掘り起こすかのように掘り起こす。そして、遺体を掘り起こし、この遺体への愛着から、さらに不正を繰り返すのである。
 だが、すべての情念が治まったとき、われわれは中立なる観察者と全く同化することさえできるのである。


 自分自身の行為について、その適宜性に関する判断は、行為の前と後に関わらず常に一方的なのである。だが、もしも、諸感情の美醜を判断する特別な能力があったならば、観察が容易な分、他人よりも、自分の諸感情についての判断の方が明確にできるはずである。
 この自身の諸感情を正しく判断できない、という人間の致命的弱点は、人間生活の混乱の半分である。


 しかし、自然は、この人間の致命的弱点、すなわち自身の諸感情を正しく判断できないという弱点を放ってはおかなかった。
 人は、他人の行為を見た時に、それに対して起こす感情を経験し、またまわりの人もそれと同じ感情が起きたことを表明するからである。こうして、人は、まわりの人と自分が同じ評価基準を持っていることを認識し、その評価基準に従おうとするのであり、そのことに人と同じものを持っていることに満足するのだ。
 また、他人の悪い行為に対しては快くない感情が、他人の良い行為に対しては快い感情が、それぞれ自身に起こるという経験は、人に、その善し悪しと関連した好悪の感覚を植え付けるのに十分である。
 どういった行為が、どういった感情に結びつくのか、ということは、経験をおいて他、形成されることは無い。
 逆に言うと、人類の善悪の判断は、法廷のように、すなわち、先にきまりがあって、次にその行為がそのきまりに対してどうであるのか、ということによって判断されるのではない。判例によって導き出されたきまりが、それを判断するのみなのである。(確かにそうだ。憲法のような決まりはあるが、それは普遍世界の話で、個人世界において、それは各個人が形成した判断基準にのみ基付いているだろう。)
 このような習慣的な省察と経験によって育まれた一般的諸規則は、それが、定着した時、なにが為されるのが適切正当であるのかについて、自愛心の間違った表現を矯正するのに非常に有用になるのである。

感想
 パーソナル世界における善悪の判断がこのように形成されるからこそ、「洗脳」が有効なのであるし、例えば、ナチスの大虐殺のような行為が正当化される社会ができ得るのである。パーソナル世界の善悪の判断基準を、いかにユニバース世界の善悪の判断基準に近付るか、ということが重要なのかもしれない。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120308/1331203887