アダムスミス 道徳感情論 要約 3

第4篇 行為の適宜性に関する人類の判断に対して、繁栄と逆境が与える判断について、および、前の状態にあるほうが、あとの状態にあるよりも、彼らの明確な是認が得やすいのはなぜか

第1章 悲哀に対するわれわれの同感は、一般に、歓喜に関するわれわれの同感よりも、いきいきとした感動であるのに、主要当事者によって感じられるものの激しさには、はるかに及ばないのが普通であること

 悲哀に対するわれわれの同感が、その激しさにおいて、当事者のそれにはるか及ばないのは、悲哀の度合いが、人の通常の状態からすると、無限のように大きいからである。逆に歓喜は、普通の状態より、少しだけ高ぶっているに過ぎない。
 また、人は悲哀を、その同感においても抑制しようとする。これに対して、歓喜には、嫉妬やその他の利害関係が無い限り、際限なく同感しようとする。
 悲哀は、このように抑制されるべきであるが、抑制するのが困難なほどの大きさをもつものとして認識されている。これが故に、英雄がその逆境において、悲嘆にくれないことは、最大の感歎と同感をもってして、それが歓喜に転化される。

感想
 アダムスミスの精神力に感嘆する。私が今現在疲れているとしても、自分の感情をこれだけ客観的に見つめることはできない。というのも、スミスの理論を自分に引き当て正しいのか検証すると、その感情に引きずられて、私の中に、怒りや悲嘆、歓喜の情念が起こり、それが明晰な理解を疎外するからである。つまり、私は、客観的にスミスの理論を理解すると同時に、主観的にそれが正しいか検証しているということになる。しかし、この主観的な検証(一般的にはあり得ない検証だ、なぜなら検証は客観的であるべきであるからだ)から、すぐに気持ちを切り替えることができない。

第2章 野心の起源について、および諸身分の区別について

 前章までに述べたように、人の幸福な状態は、同感を得やすい。そして、これが故に、幸福な人は多くの人の注目を受けるのであり、無条件に見守られるのである。そして、この多くの人の同感を得るという目標のために、見栄が張られるのであり、また、自分の困苦を隠し、富裕を見せびらかそうとするのである。困苦者は、逆に、その困苦そのものによる悲哀と、困苦であることによって人々から見捨てられることによる悲哀、まさにこの二重の悲哀によって苦しまされるのである。
 また、この同感の理論によって、王や貴族が、その地位にいることがわかる。彼らが生まれ持った「それ」こそが、皆の同感の対象であり、皆から「それによって無条件に幸福な状態である」という同感を得ることによって、彼らはその地位を保つことができる。しかし、彼らが事実として幸福であるかどうかは、別のことであるし、「それ」を保つための特別なしぐさや、特別な習慣もある。
 このように「それ」を持つ者が、多くの人から尊敬され、注目されるのは、自然な性向なのである。そしてまた、この自然な性向は簡単には覆されることはない。
※注 「それ」は私が分かりやすくなるように考えた代名詞、ここまでの内容を理解しているとなんとなくわかっていただけると思う。

感想
 なぜアダムスミスが、同感simpathyにそこまで入れ込むのか、やっとこさ分かった。彼は、人が富裕で居たいと思う根源の理由を、ひとつは、この「同感作用」によるものと考えたのだ。人は、時に、必要以上の富を求める。この必要以上に求める気持ちは、多くの人から同感されることによって、多くの人から注目されたいという願望や野心から生まれる。そして、これが貪欲となってその人を支配する。これが貪欲の全ての根源的理由ではないと思うけど、そのひとつであることは間違いないと思う。

第3章 ストア哲学について

 徳とは卓越性である。この卓越性、つまり大きな困苦に対する度量(恐らく原語はtorelance)が、人々の感歎を促し、その行為を徳ある行為とするのである。このことにより、彼に起こる困苦は、より大きなものであるほど、多くの人の感歎を得る。たとえば、生々しい傷だらけで帰ってきた敗戦の戦士は、汚らしい姿で帰ってきた勝ち戦の兵士よりも多くの感歎を得る。前者は名誉を得るのに対して、後者は不名誉を得る。また、物語の英雄は、大きな困苦と苦渋をなめることで、人々の感動を得る。
 ストア哲学は、全ての状態において常に平然の心状態を目指すものである。この結果として、人々から感歎されるような徳を得ることになる。
「人類の軽蔑に比べれば、他の全ての外面的な害悪は全て耐えられるのである」

感想
 この章まで来ると、「本当の徳」とは何かと考えさせられてしまう。なぜなら徳とは、私にとっては普遍的なものであるからだ。全人類から否定されるような行為でも、その普遍性に適ってさえいれば徳なのである。しかし、徳の起源は、「他者からの感歎」というもの、または、「人類一般の適宜性」から判断されることに他ならず、私が、それを「徳virtue」だ。と主観的に決めたとするのならば、それは普遍でなく、「人類一般の適宜性」から判断したに過ぎないのだ。こうして考えてみるに、徳の全ては、「美しい行為と判断されるとは限らない」ということになる。しかし、徳は普遍的であるのだから、皆から「美しい行為である」と判断されるべきである。してみるに、徳は、その判断において、二律背反の真理であるということか。つまり、最も普遍的な徳は、「誰もがそれを美しい行為であると判断すると同時に、そう判断されるとは限らない」のである。

第3章 富裕な人々、地位ある人々に感嘆し、貧乏でいやしい状態にある人を軽蔑または無視するという、この性向によって引き起こされるわれわれの道徳諸感情の腐敗について

 われわれは、富裕な人々、地位ある人々に感嘆し、時としてそれを徳vitueそのものよりも過大に、またはそれを無視して、富裕な人々を模倣しようとする。貧乏でいやしい状態にある人は、法律を越えることはできないし、富裕な人々、地位ある人々と同じ不品行をした場合でも、はるかに軽蔑の眼で見られる。こゆえに富裕であることを誇りとし、それに対して憧れを持つ。
 そして、この自然な性向が故に、徳からは程遠い流行などが上位者によって主導される。
 下剋上した富裕な人は、多くの場合低劣な手段を用いているのであり、彼らは、その目標とする地位を得たとしても、その低劣な手段による思い出にさいなまれる。

感想
 封建的な地位社会において、このことは良く当てはまると思う。つまり、これは今の時代では少し事情が違っていると思われる。だが、そうでない普遍的なところももちろん多大にある。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120308/1331203887