韓非子を読んでいて1
買ったけど、ほとんど読んでなかった韓非子を最近読み始めた。とても難しい。
なんで読まなかったかというと、孫子もそうだけど、韓非子も、いかに内容が優れていようが「実用書」でしかないからだ。私が求めているものは、世俗での実用でなくて、世界での真実である。だから読まなかった。孫子や易経を読むのも結構封印していた。実用は、心を世俗に引っ張るので、徳的成長を促すものではないからだ。だけど、最近、真実への探求がひと段落し出したことと、歩き瞑想をしていないこと、その他私の心境の変化も相まって、そういったものを手に取るようになっていた。
私の求めている真実とは、言葉が適切であるかはわからないが、非常に崇高で神秘的なものだ。それを知ることは全てを知ることであり、それは全ての始まりであって全ての終わりでもある。孫子や韓非子や易経に書かれていることはとても難しいし、そしてある意味では美しい、そしてそれは真実でもある。しかし、それは私の求めている本当の真実の二次的なものでしかない。例えるなら、確かにその写真に写っている花は美しいのだが、本物の花はそれをはるかに越えて美しいように。写真の花は写真としてとても美しくても、それは写真でしかないように。そのように、存在している場所、美しさの基準、その次元そのものが違うのだ。如何に至高の美しさを備えた写真でも、至高の美しさを備えた実物とは比べることはできない。
それで韓非子についてだが、恐ろしく優れた書物だと思う。孫子と肩を並べることができる。文学的価値だけで言えば孫子を越えている。
何がどのように優れているかと言うと、
まず一点目、文学的美しさ、文体の持つ美しさの波長がずば抜けていること。普通、邦語に翻訳されるとこれがかなり消え去るのだけど、文体自体にそれがあって、翻訳されてもそれが抜けない。それが残るのだ。多分英語に翻訳されてもこのことは言えるだろう。(単語が無くてうまく翻訳できないかもしれないが)
そして二点目、内容を「完全」にしてあるので、後の加筆や削除ができなくなっていること。恐らくだけど、韓非自身の作のところは、韓非が当時書いたまま、ほぼ完全に残っているだろう。つまり、テキストの年代に関わらず内容がほとんど変わっていない作品であると思われる。
次三点目、書かれている内容が実用として優れているばかりでなく、計算された蔵意、含蓄がとてつもないこと。ある程度以上理解力のある人が読まないと、その真意を汲み取れないようになっている。かと言って、理解力がそこまで及ばなくても読む価値は十分にあるようになっている。つまり、だれが読んでも韓非の実力が分かるようになっているのだ。
実用書という観点からすると、孫子と韓非子を越えるものは、恐らくこの世には存在しないだろう。
2011.8.7