37.荀子 現代語訳 非相第五 三章-後

 かの妄人は言う。昔と今とでは人情も違うし、そのことによって治乱が発生する原因も違っているのだと。そうして、大衆はこの説に惑わされる。その大衆というのも愚かで自説を持っているわけではなく、見聞も少なくてそれを判断できない者なのである。

 見えることでさえも欺くのである、ましてや千世という長い歴史においてそれを欺かないということがあろうか。妄人という者は、門と庭の間といったような、見るに明らかなことにさえも欺くことをするのだ、ましてや千世という長い歴史のことについてそれをしないだろうか。

 では、どうして聖人は欺かれないのか。それは、聖人という者は自分によって全てを測る者だからである。つまり、人を基準にして人を測り、人情を基準して人情を測り、同じ類によって同じ類のものを測り、秩序立ててものごとを展開することによって功績を測り、道によってその究極の結果を実現することは、昔も今も同じなのである。(●人を以て人を度り情を以て情を度り類を以て類を度り説を以て功を度り道を以て尽極を観るは、古えも今も一なり。類の悖らざれば久しと雖も理を同じくす)

 同じ系統のこと(類)に因ることを忘れないならば、どれだけ時が経とうが根底にある道理は同じなのである。だから、邪説や間違った見解に向かいあっていても、複雑なことを概観しても、惑わされることが無いのは、これによってこれを測ることにあるのである。

 五帝より前の時代の人で現代まで伝わっている人がいないのは、賢人が居なかったからではない。久しく時が過ぎているからである。五帝の時代以外について治世の記録がないのは、善政が無かったからではない。久しく時が過ぎているからである。禹や湯の政治は伝わっているけれど、周の政治ほどに詳しいことはわからないのは、善政が無かったからではない。久しく時が過ぎているからである。

 伝えることも時が経るにつれてだんだんと大まかに略されていく、だから、時代が近ければ近い程詳しことも分かるのである。大まかに略されているのなら全体を見ることができるし、詳しいことまでわかるのなら些事にも的確にこたえることができる。(●略なれば則ち大なるものを挙げ、詳しければ則ち小なるものをも挙ぐ)

 愚者は、大まかに略されたことを聞いて詳しいことに想像を馳せることができず、詳しいことを聞けばそれが全体の一部であることに思いを致すことができない。こういったことであるから、記録も時が経るにつれて滅ぶこととなり、音楽の節奏も時が経るにつれて絶えることとなるのだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■今も昔も東でも西でも人の情は変わらない。と荀子は主張する。いやそんなことはない、人間は歴史を経るにつれて薄情になってきているし、昔は無かった習慣が今はあるし、ある国では囚人でも一般人に劣らぬ生活をしているのに、ある国では奴隷同然にこき使われる一般人いる、こういったことは現に起こっているではないか、と反論したくなる方も居るかもしれない。しかし、それは、違う。その意見はものごとの類を混同しているに過ぎない。人間は人間で変わらないのであるけれど、環境が人間をそうさせているのである。現代人に古代人の生活をしろと言っても、誰もそれはしないであろう。しかし、古代人に自動車や農作業用のトラクターでも与えたら、それを現代人並みに使いこなすようになるであろう。ここにおいて、「便利なものを使いたい」という人情は、古今東西で同じなのである。人情云々と言った議論も逐次が万事これと同じことである。だから、人間が変化して人が薄情になったのではなく、人間を薄情にさせるような環境が、昔に比べて今の方があるというだけなのである。