36.荀子 現代語訳 非相第五 三章-前

三章

 人が人たる所以は何であろう。それは、弁別があることにある。

 飢えれば食べたいと思い、寒ければ温まりたいと思い、疲れれば休みたいと思い、利を好んで害を嫌がることは、人の生まれながらに有しているところであり、論ずるまでもなくそうであるところであり、聖王の禹と暴君の桀が同じくするところである。

 そうであるならば、人が人であるための条件は、ただ二本の足で歩いて毛が無いことによるのではない。弁別があることによるのである。

 猩猩(しょうしょう:想像上の生き物)という生き物は、二本足で歩いて毛が無い。そうであるけれども、君子は、これのスープを飲んでこれの切り身を食べる。(恐らくこれは、猩猩を小人や暴君、スープとか切り身とかを義による利として例えたのであろう)

 だから人が人たる所以は、ただ二本足で歩いて毛が無いことによるのではない、弁別があることによるのである。禽獣にも親子関係はあるが親子の親しみはなく、雄と雌との別はあるけれど男と女との別はない。だから、人道には弁別がないというわけにはいかないのだ。

 弁別においては分限を定めるよりも重要なことはなく、分限を定めることにおいては礼を尊重するより重要なことはなく、礼を尊重することにおいて聖王を模範とするより重要なことはない。しかし、聖王は百もある。一体どの聖王の法に従ったらよいのだろう。

 法の明文も久しく時が過ぎれば滅びてしまい、楽曲の節奏も久しく時が過ぎれば滅びてしまい、計測の方法を司る役人も久しく時が過ぎれば滅びてしまう。だから、聖王の痕跡を見たいのならば、その輝かしい者においてせよ、後王こそがこれである、と言うのだ。(●聖王の跡を観んと欲すれば則ち其の燦然たる者に於いてせよ、後王是れなり)

 かの後王とは天下の君である。後王を論じることをしないで、それより遡って聖王のことを論じるのならば、例えばそれは、今の自分の君を捨てて他の君に仕えるようなことである。

 だから、千年前を知ろうと思うのならば今日のことをよく調べ、億万の数を知りたいのならばその最初の一二から詳しく明らかにし、上古時代を知りたいと思うのならば周の規範を明らかにし、周の規範を明らかにしたいのならば人々が貴ぶ君子人について詳しく知れと言うのだ。だから、近くの事によって遠くを知り、一によって万を知り、微妙なことから広く明らかに知る、というのはこのことを言ったものであるのだ。(●近きを以て遠きを知り一を以て万を知り微を以て明大を知る)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■不苟第三・十章と内容が少なからず重なっている。「本立ちて道生ず」という儒学思想がよく見て取れる。

論語・為政第二より「子張問う。十世知るべきか。子曰く、殷は夏の礼に因る。損益する所知るべきなり。周は殷の礼に因る。損益する所知るべきなり。其れ或いは周に継がん者は百世と雖も知るべきなり」