今私が見ている真実

 私の理解する範囲内での、仏教的観点や、哲学的観点からすると、真実とは多くの「生き物」が共有できることではないか。ということになっている。

 「真実」と「虚偽や妄想」は、限りなくその境が曖昧である。なぜならば、例えば、ある家庭では、「鉛筆」のことを「ボールペン」と言っていたとする。すると、この家庭では、「鉛筆」が「ボールペン」と言われることは、事実である。この原理をもう少し大きくしてみる。日本では、自らの裸体を示すことは恥ずかしいことである。だが、世界にはそうでない場所もあろうし、野生動物や虫に至っては、そんなことは恥ではない。だから、自らの裸体を示すことを恥とするのは、所詮、ある範囲内でしか真実とは言えない。

 これと並行して、私たちが感じていることは、ただ、そう感じていると思っているに過ぎないことばかりである。例えば、空は、どの生物にとっても青く見えるであろう。だが、目のない生物にとって、それは真実でない。それに、私たちの目が無くなってしまったら、それはその途端に真実でなくなる。いや、心がある。ヘレンケラーも、空は青いと知っていた。と思うかもしれないが、ヘレンケラーに心が無かったら、空は青いと言うことは真実でない。逆に言うと、心のないヘレンケラーからすれば、空が青いと言うことは、妄想でしかない。

 結局のところ、このように、ほとんどのことは、誰か何者かにとっては真実であり、また誰か何者かにとっては真実で無くなってしまう。だが、ひとつだけ、どの生き物にも共通の真実がある。それが、「生きている」ということだ。これだけは、生きている限り否定しようにも否定できない。これを否定し得るのは「死」だけである。

 この故に、自分が生きていることを肯定することと、また、他者の生きていることを肯定すること「慈悲や慈愛」と言ったものは間違いなく真実であるのだ。「慈悲や慈愛」は、唯一自他を通して「生きていることを共有できること」である。これが真実であるということだけは私は言いきれる。そして、断言する。だが、他のことについては、間違いなく真実であるとは断言することはできない。これが、今私が見ている真実だ。

 釈尊が真実についてを議論する弟子を諌めて、このような話をしたと言う。ある王様がいて、象を見てみたいという異国の人を何人か連れてきた。そして、ある者には象の鼻だけを、ある者には象の前足だけを、ある者には尻尾だけを、目隠しをした上で触らせた。そして、今度はこの者たちに、象がなんであるのか議論させた。当然に、議論は割れる。真実は何か、ということを議論するのはこういう話であるのだと。私が思うに、この象の全体像を見ることができるようになるのは、恐ろしく長い精進と不放逸と慈悲行を積んで、仏となった者だけだと思う。議論することは決して無駄ではないけれど、全ての真実を知ることがどれだけ難しいことであるのか、ということを知ることが真実を知る上で重要であると思う。