61.荀子 現代語訳 儒効第八 十一章

十一章

 話を聞かないことは話を聞くことに及ばない。話を聞くことは実際に見ることに及ばない。見ることは知ることに及ばない。知ることは行うことに及ばない。学問は行うことに至って止まる。(●聞かざることは聞くことに若かず。聞くことは見ることに若かず。見ることは知ることに若かず。知ることは行うことに若かず、学は行うに至りて止む。)(耳に慣れた言葉にアレンジすると、無聞は一聞に如かず、百聞は一見に如かず、百見は一知に如かず。百知は一行に如かず。学は行に至って止まる。)

 学問の成果を実際行うことができるなら明であると言える。明であって聖人である。(●これを行えば明なり。明なるを聖人と為す)聖人という者が、仁と義を根本として、是非の判断を正しく行い、言行を正して均一にして、それを片時も失わないのは、他でもない。行うことに止まるからである。

 だから、聞いたことがあることでも見たことがなければ、いかに多くを聞いていても必ず勘違いをし、見たことがあることでも知らないのなら、いかに記録があったところで必ず思い違いをし、それを知っていても事実としてそれを行わないのなら、いかに敦厚な知があったとしても必ず困り果てることとなる。聞いたこともなく見たこともないのなら、いかに当を得たことでも仁ではなく、そのことを百回行ったところで百回とも失敗するであろう。(●聞かず見ざれば則ち当ると雖も仁に非ず、その道百挙にして百陥す)

 だから、人に、師もいなくて法則もないとき、計算高い知があれば必ず盗みを働くこととなり、勇があれば必ず人を傷つけることとなり、能力があると必ず権力を人から剥奪し、奥深いことまで推測できると必ず怪しげなことをして、弁舌が立つなら必ずはったりや嘘を繰り返すこととなる。

 人に、師があって法則があるとき、計算高い知があれば速やかに通じるようになり、勇があるのなら速やかに威風を帯びて、能力があるのなら速やかに成就して、奥深いことまで推測できるなら速やかに尽くし、弁舌が立つのなら速やかに議論を進めることができる。

 だから、師と法則がある人は人類の大きな宝であり、師も法則もない人は人類の大きな殃(わざわい)なのである。(●師法ある者は人の大宝なり。師法なき者は人の大殃なり)

 人に師と法則がなければ自然の本性(性)を尊ぶこととなり、人に師と法則があるのなら努力と精進(積習)を尊ぶこととなる。このように、師や法則といったものは、努力を積むことによって得ることのできるものであり、自然の本性(性)から得るものではないのである。

 自然の本性(性)とは、独立してそれを治めるには不足があるものである。つまり、性とは、自分ではどうすることもできないことで、そうとは言っても少しずつ変化させることはできるものなのである。努力を積むということは、自分の所有するものではない、しかし、為すことはできるものである。(●性は以て独立して治むるに足らず。性なるものは吾れの為すこと能わざる所、然れども化すべきものなり。積なるものは、吾れの有する所に非ず、然れども為すべきものなり)

 勉強や習慣といったものは性を変化させるためのものであり、心を専一にして不二にすることは努力を積んで目標を成就するためのものである。習慣は志を変化させ、続けて安んずるならば性質が変化する。専一で不二ならば神明に通じて天地と同化する。(天地にも参わる:まじわる)

 だから、土を積めば山となり、水を積めば海となり、朝日と夕暮れが積もれば年となり、至高なものは天であり、至下なものは地であり、遥か彼方、宇宙の上下四方は極であり、途上の人百姓も善を積んで全く尽くすのならば聖人である。何にしろ、求めることがあってそうして得ることができ、何かを為してそうして成就することがあり、積み上げることがあってそうして高くなり、尽くすことができてそうして聖なのである。だから、聖人というのは、努力を積んだ凡人のことである。

 人は、草を引いて耕すことをやめないなら農夫となり、切ったり削ったりすることをやめないなら職人となり、商売をやめないなら商人となり、礼と義を積むならば君子となる。

 職人の子はやはり父を継いで職人となり、国の民衆はその国の風習に安んじている。楚に住んでいれば楚の風習に安んじ、越に住んでいれば越の風習に安んじ、夏に住んでいれば夏の風習に安んじる。これらは、天から与えられた自然の本性ではなく、生活習慣が積まれたことによるものであるのだ。

 だから、人は、普段の行動を謹み習慣を慎むことを知り、塵を積もらせ大きくするならば君子となり、自分の感情と自然の本性に任せて、学に問うことをしないのならば小人となる。君子となれば常に安心し栄えるが、小人となれば常に危険と恥辱と隣り合わせである。(●人は注錯を謹み習俗を慎むを知りて積微を大とすれば則ち君子たり。情性をほしいままにして問学に足らざれば則ち小人たり。君子たらばすなわち常に安栄にして小人たらば則ち常に危辱なり)

 そもそも人は、安心と繁栄を好んで危険と恥辱を嫌うものである。だから、君子だけがその好むところのことを得ることができて、小人ならば日々にその嫌うところを迎えることとなるのである。詩経 大雅・桑柔篇に「ああ、ここに居るこの良き人には、何も求めず勧めもせずに、ああ、かの残忍のあの人には、いつも心をときめかす。みんな貪欲乱暴で、毒の茶を摘み、毒の茶を飲む」とあるのは、このことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

性悪説との関係も深いと思い、自然の本性(性)と原文の漢字も入れておいた。性とは、特に、人間が自然本来にもっている性質のことを言っているようである。性悪説にしろ、性善説にしろどちらも正しい。教える側の孟子荀子からすれば、相手の弟子が、誉められて伸びるタイプか、叱られなければ分からないタイプかという問題の話だと思う。http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120125/1327492212

■「百聞は一見に如かず」と「塵も積もれば山となる」は荀子からできた言葉だと思う。