「弱肉強食、競争社会」は是か非か

私は大阪市長の橋下氏についてあまり好感を持っていない。

というのも、そもそも彼は、「政治には進出しません。出馬はしません。」などと再三にわたってテレビで公言しておきながら、腹の中ではかなり前から政治に進出するつもりだったようで、ちゃっかりと大阪市長になったばかりか、またたくまに一政党の党首にまでなってしまったからだ。

確かに、戦略上はこのやり方が正しい。戦術においては奇襲が最強である。しかし、これは信用の置けぬ人間のやることであることは間違いない。人に嘘をつくことをなんとも思っていないからこのようなことができるのだ。せめて、「分からない」くらいの発言だったら、私もそこまでは彼を「信用出来ない人物」などとは言わなかっただろう。

また、以前にも「慰安婦発言」があった。慰安婦問題は、子供も目にするテレビでは、あまり発言してはならないことのはずだ。だから、新聞記事にも少なかったし、テレビでも、この問題がニュース番組で取り上げられることはなかった。とはいえ、水面下のネット上では、これはかなり大きな話題となっていたことは事実である。

それなのに、いやだからこそ、彼はこれをプロパガンダとして利用するために、記者会見で、子供の前で、大きな声で発言してしまった。思慮のない人間のやったことならまだ許せるだろう。しかし、彼は司法試験を合格したエリートである。思慮がないとは思えない。ならば、「分かっていてやった」のである。自分の勢力を大きくするために。(ああ、書いていたら胸糞悪くなってきた)

このような経緯があるから、今回の「もう政治の世界を引退する」という彼の言葉を、私はこれっぽちも信じていない。どうせ、「皆さんの期待に応えるために」とか言いながら、しれっと立候補するつもりであろう。今はどうやら風向きが自分に不利だから引退発言しただけで、風向きが少しでも良くなったら、また絶対に立候補するだろう。私に言わせれば、策士というのはいつもハラとは逆のことを言うから、何をやるつもりなのか逆に読みやすいというものである。


私は彼のことに関して、一切すごいと思わないし、これっぽちも尊敬しないし、二度と人前には出てほしくないし、一切の影響力を持ってほしくないと思っている。


だがしかし、彼にもすごいと思ったことがある。彼は「弱肉強食、競争主義」という思想から一切ブレていないからだ。多くの人が彼に付いて行きたくなる気持ちも分からないでもない。彼の正義は、「強い者が勝つ」この一点から一切ブレていないのである。これはなかなかできることではない。

私がこのように思ったのは、「女子高生を泣かせた討論」を見た時である。この討論は、大阪都構想が実現すると、貧困にあえぐ家庭の高校生への学費補助が無くなる、ということに関する討論であった。

討論者は、橋下氏一人に対して、今現在補助を受けている高校生数人というものであった。

当然、高校生は「弱いものが取り残される社会でいいのですか」と再三にわたって窮状を訴える。

しかし橋下氏はまゆ一つ動かさずに、「強い者が勝つ、競争主義、これが今の日本社会なのだ」と高校生を封殺する。

すると、一人の女子高生が泣き出してしまう。

私ならば、この時点でしかめっ面をして、静かに下向き、あるいはその女子高生を見つめることしかできないだろう。そして、こう言うしかない。「うん、君の言いたいことも分かるよ。でもね、それだと大阪の財政がどんどん悪くなって、君の子供くらいの子に、高校教育を受けさせることができなくなくなるかもしれないの。だから、今は、君が君の将来の子供のために、なんとかがんばって。」と。

しかし、自分も貧困家庭に育ち、しかも市長までのし上がった橋下氏の言うことは違う。「弱肉強食、競争社会」の一点張りである。とにかくブレていないのである。

私はそもそも「どちらかが勝つ」ような議論はしない。なぜなら、何も得ることがないからである。対話ならするだろう。だから、私が議論することはまずないのだけど、橋下氏と言い合ったら負けるであろうと思った。私にはそのようにブレない思想がないからである。

あり得ないことだけど、私が橋下氏と論戦になったら、絶対に「弱肉強食、競争社会」の是非が焦点になってくると思う。彼の強さも議論の基準もそこにあるからだ。

またそもそも、論戦を無制限一本勝負で行ったら、意志の強い方、あるいは冷静さを保った方が勝つ。つまり、信じる力の強い方が勝つ。その点で、間違いなく負けると思った。


かなり前置きが長くなってしまったけど、ここからが本題である。

そこで思ったのである。「弱肉強食、競争社会」は果たして是か非かと。

私は経験的に「弱肉強食、競争社会」は非だと思っている。

しかし、ダーウィンの進化論でも明らかなように、地球上の生物はウン十万年の間、競争を繰り返し、強い者が食って弱い者が食われ、そのように「競争社会」で成り立ってきたのだ。弱いものは淘汰され、強い者が残り、こうして今の生態系はバランスが保たれているのだ。

また、人間社会も強いものが指導者となるから成り立つ、組織だってそうだ。みんな人の上に立ちたいと思っている中で、なんらかの強さを持ったものが競争を経て人の上に立つ、だから組織も社会もうまく成り立っていく。

また市場での競争を経て、品質の良い商品が残り、品質の悪い商品が淘汰されるから、われわれは文明の利品を安全に安価に使用することができる。

この逆の現象として、「競争を経ていない親の遺産を継いだ○○社長」が会社を潰してしまうということがある。独占を行った業界が劣悪なものばかり提供して、信用されなくなるということがある。この現象のことを考えてみれば、競争がない社会がどうなっていくかも見えているというものである。

ならば、女子高生を圧倒的な力で泣かせて、嘘をついてでも最強の策略を選んでいく「弱肉強食、競争社会」が是であり、正しいということになる。究極的に言えばそういうことになる。

本当にそうなのだろうか。理論的にも橋下氏が正しいから、私は勝ち目がないと思ったのだろうか。

しかし、それはそうではなかった。私は、重要なことを忘れていたのである。

中国の伝説的な皇帝、舜は、堯という賢人に位を譲り、堯はまた、禹という賢人に位を譲っている。そう、人間社会には、「譲り助けあう」という考え方があったのだ。

しかし実は、自然生物や生態系だってそうである。野生生物が必要以上に「狩り」をしたという話は聞いたことがない。カラスだって家族同士で落ちた食べ物を口移しで分けあっている。猫などが「無知」のために、食べないネズミや虫を取ることはあっても、それは競争をしているのではない。確かに同族間で、縄張り争いをする動物は多くいるが、直接の殺し合いをするという話は特殊な場合を除いて聞いたことがない。

だから、自然界も、競争や淘汰の反面で、常に譲り助け合うことによって成り立ってきているのである。むしろ、人間が言う「競争」というものは自然界には一切ないのではないかとさえ思われる。

また、人も近所や親戚同士、縁のある人同士で、いろいろな「譲り助け合い」をする。だからこそ、人間社会は成り立っているのである。この関係は、どちらかが強いから、競争があるから起きることではない。しかし、重要で不可欠な社会の構成要素なのである。

しかし、人間の知というのは、まさにピンキリで、残念だけど、「自分より賢い人に譲る」ということができる人は、本当にごく一部しかいない。

だから、人間社会においては、「上の立場に居て譲ることのできない凡人」が、「下の立場にいて力が強い凡人」に食われていく「競争」が起こる。

また、このために「競争」が人間社会を維持する上で是であるように見えるのだ。

ここで行われている凡人同志の紙一重の戦いが、「競争」なのである。今までの議論からも、この「競争」が本当に紙一重で優劣が決まるような、ただただ人情に反する下劣なものであることは分かっていただけると思う。

ならば、「譲り助け合い」を是とする賢人はどうしたらいいのだろうか?

もちろん私は賢人ではないから分からないのであるが、少なくとも「弱肉強食、競争社会」だけが是ではない。これは間違いがないことである。

「弱肉強食、競争社会」だけが正しいわけではないのだ。