138.荀子 現代語訳 正論第十八 五章

五章

 世間で論説を展開している者の中には、堯や舜は禅譲したのだと言う者がある。

 しかし、これはそうではない。天子という者はその位は至って尊いもので天下に比肩する者はない。そうれなのにどうやって譲ろうと言うのか。道徳が純粋に備わっていて智慮は甚だしく明らかで、政治を執って天下のことを聴けば、生きている者は振動従服してこれに感化されないということはなく、天下には隠士がなく残される善はないくなり、この善の体現者である天子に同じる者は是となって同じない者は非となる。このようであるのにどうやって譲ることができようか。

 死んだからこれを譲ったのだと言う者もあるが、これもまたそうではない。聖王が上にあるのなら、徳を決して次序を定めて能力を測って官職を授けて、全ての民が適職を行って各々がその宜しき所を得るようにして、義を利に優先させることができない者も、行為によって本性を飾ることもできない者も、兼ねてこれを民衆とする。

 聖王が没して天下に聖人が居ないのなら、そもそも天下を譲るに足るものがないことになる。天下に聖人が居てさらにしっかりした跡取りも在るのならば、天下が離れることはなく、朝廷での位に変化はなく国の制度も更新されることなく、天下はどっしりとした様子で先と何も変わらない。こういったことであるのなら、堯によって堯が継がれたのであって、そこには何か変わったことなどないのである。

 聖人にしっかりした跡取りがなく、三公のうちに聖人が居た場合は、天下がここに帰すること、よみがえって振い付くようなもので、天下はどっしりとした様子で結局は先と何も変わっていない。堯によって堯を継ぐのであって、そこには何も変わったことなどないのである。ただ、朝廷の中心が移って制度が改められることだけが異なっているのである。

 だから、天子とは、生きていれば天下が貴ぶところを一つにして、善に従うことを致して治め、徳を決して次序を定めて、死んでは天下のことを任せられるような者が必ず居るのである。かの礼義の分限もここに尽くされるというもので、どうして禅譲などを用いる必要があろうか。

 また、老衰したから譲ったのだという者もあるが、これもまたそうではない。

 血気や筋力といったものは衰えるということもあるだろうが、かの知恵や取捨の選択ようなもが衰えるということはないのである。

 老人では労力に耐えることができなくて休まなければならないという者もあるが、これもまた事を憚っている者の議論でしかない。

 天子という者は、その権勢は至重で、形は至って安逸、心は至って愉快で志に屈する所はなく、そうして体が労することはなにのに尊さは無上なのである。

 衣装は五采を服して、いろいろな色が混ぜられて立派な刺繍が施され、さらにこれに加えて珠玉で飾るのだ。飲食については、肉のごちそうに珍味が取り揃えられ、かぐわしい香りを発し、曼の音楽とともに食事が出されて、鼓が打たれる中で食事を取り、食事を食べ終わればヨウの音楽とともに釜の神を祭って、食事を勧める者は百人も居て西の小部屋で待機している。

 住まいは張幕と屏風とが設けられて、ついたてを後ろにして立ち、諸侯は堂の下で走り回る。玄関を出れば巫女やかんなぎにお祓いをさせて、門を出れば祀りごとを行わせる。天子の車である大路に乗った時は、やわらかい敷物で体を安逸にして、そばには香の良い草を乗せて鼻をも満足させ、前の横木を快くして目を養い、身につける鈴の音は、歩いているときは武象と同じ音色になって、走ればショウ護の音色になって耳を養う。

 三公は馬の手綱を握って持ち、諸侯が車を取り囲んで馬を導き、大候がこの後ろに連なって大夫がこの後ろに次いでさらに小役人もこの後ろに従う。庶士は鎧を着て道を挟み、庶人は隠れて敢えてこれを視ようともしない、

 居れば大神のようで、動けば天帝のようで、老を保持して衰えを養うことがこれより善い者があるだろうか。老人は休まなければならないが、休むことがこれよりも安楽愉快である者があるだろうか。

 この故に、諸侯には老するということもあろうが天子が老するということはなく、国は譲ることもあるだろうが天下を譲るということはない。というのは、今も昔も変わらないことである。かの堯や舜は禅譲したのだ、というのは虚言というものである。これは浅薄な者の伝えたことであり、世間知らずの説である。逆順の理と小大、至る至らないの変化とを分かっていないことである。これでは天下の大理に及ぶことはできない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■天子の安楽さを示すところはかなりめんどうくさかった、意味が分からない言葉があるからでなくて、現代では全く意味を為さないことだからである。

■そうとはいうものの、荀子は、天子の事をやはり、本当の人間と言うよりは、象徴的な何か、つまり、現代で言えば民主主義の象徴のようなものとして「も」想定したのではないかと思う。「も」というのは、本当の人間として想定している部分もあると思うからである。敢えて曖昧にしているのかもしれない。