145.荀子 現代語訳 禮論第十九 八・九章

八章

 禮というものは、吉凶(得失)の分別を謹んで、その得失の両方を覆わないものである。

 わたを鼻に押し当てて息があるかどうか聴くとき、忠臣や孝子はただその病であることだけを知って、納棺する準備や死装束の準備をしたりはしない。涙を流して畏れおののいてそうして生きていることを願ってやまないのであり、養生のための仕事をやめないのである。

 息の絶えたことがはっきりしてそうしてから棺桶などを作ることとなる。だから、富の備わった家であっても必ず一日が経ってから納棺することができて、三日経ってから死装束を着せることができて、そうしてから遠方に知らせる者が出発して道具をそろえる者が道具を作り始めるのである。

 だから、納棺の状態で葬式をしない期間は、長くても七十日を過ぎないし、速くても五十日はかかるのである。これはどうしてか、答えて、遠方の人が来ることができて、百の必要なものを揃えて百の準備も終えることができて、その忠(まごころ)が至り、その節(けじめ)は大となり、その文(修飾)が備わるからである。これらが整ってからに、昼間に葬式の日を占いして夜に墓地を占いして、そうした後で埋葬するのである。

 この葬る時になったからには、この義を無視して葬ることをやめさせるようなことを誰にできるだろうか、このように義が行われようとしているのに誰がこれを止めることができようか。この故に、三か月かけて葬る時は、ちょうど生きているような有様となるように、死者を飾るのである。かりもがりで死者を埋葬しない間は、ただ死者を引きとめて生きている人々を慰めるだけではない。これは禮の隆(文理を致すこと)に思慕を致す意図を持ったものなのである。

九章

 喪禮のおおよそとは、段階に応じて儀式を変えて動かし、時期とともに徐々に生者から遠ざけ、時期が経てば平常の生活に徐々に戻るものである。

 この故に、死の道を飾らないのなら、死は醜いものとなり、醜いものとなれば悲しまない。遠ざけないでいれば、死者になれて嫌悪の情が出て、嫌悪の情が出れば怠ることとなり、怠れば敬しない(大事にしない)ことになる。

 突然にその君主や親を亡くしながら、しかもこの死者を送りだすのに、悲しまないで敬することもないのならば、これは禽獣と変わらない疑いがある。君子はこれを恥じる。だから、変化させて飾るのは醜さをなくすためである。動かして遠ざけるのは敬することを遂げるためである。時が経てば普段の生活に戻るのは生きていることを優遇するためである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■葬の文化について詳しく考察すると、その地域やその時代の文化の一端がよく垣間見れるのではないかと思った。日本では火葬が行われる、また、これは早い方がいいともされる。これは恐らくだけど、仏教の影響であると思う。▼仏教思想的には、死とは必ず訪れるものであり、この必ず訪れるものが近親者に訪れたからとて、無闇に悲しむことはないとする。だから、その死の現実を受け入れるためにもすぐに火葬にするのが良いということだろう。ブッダ最後の旅(岩波文庫)によると、釈尊が入滅した時、すぐ次の日に火葬するはずであったが、「日が悪い」という理由で七日後に火葬が行われている。ここにすぐ次の日に火葬するという案がすぐさま出ているように、当時の仏教教団でも、火葬はなるべく早い時期に行われていたのであろう。▼これに対して、儒学では、死を悲しむべきこととして、悲しむ儀式、つまり泣き叫ぶ儀式さえ想定している。このあたりが、仏教と儒学との大きな違いと言えるかもしれない。▼そのように考えてみれば、死を悼まないことが理想とされる仏教とは、かなり特殊なのかもしれない。しかし、経典には、まわりで釈尊の死を悼む弟子がほとんどであり、これに同じていないのはアヌルッダだけとして描かれている。このような書かれ方からも、理想としては悲しまないことであるのだが、悲しむことは悪いことではないというスタンスを垣間見ることができるのではないか。