146.荀子 現代語訳 禮論第十九 十・十一章

十章

 禮というものは、長を絶って短を継ぎ、余分を損して不足を増し、愛敬の文を達して、いよいよ義を行うことの美を成すものである。

 だから、文飾することと粗野で生地のままであること、音楽の儀式とと泣き叫ぶ儀式、恬愉(おだやかで愉快であること)と憂戚(憂えて落ち着かないこと)とは、相反するものである。そうでありながら、禮はこれらを兼ね合わせて用いており、時に応じて挙げて代わる代わるに用いる。

 この故に、文飾と音楽と恬愉とは平常時のことを指しており、吉事に奉るものである。粗野と泣き叫びと憂戚とは危険と艱難に際して、凶事に奉るものである。だから、文飾を立てたからといって美しさが妖しくなることはなく、粗野を立てたからと言って薄情に捨て去るようなことはなく、音楽や恬愉を立てたからと言って淫らに流れて怠けてゆるがせにすることはなく、泣き叫ぶことと憂戚を立てたからと言って窮屈になって怖気づくようなことはない。これが禮の中流というものである。

 こういったわけで、情と面持ちの変化は、吉凶(得失)を分別して貴賤と親疎の節(けじめ・ちょどよいところ)を明らかにすることができればそれで十分であり、これを外れるのなら、それは姦(ずるいこと)である。難しいことではあるけれど、君子はこれは賤しむ。

 だから、悦楽潤沢であることと憂戚集悪であることは、吉凶憂愉の情が顔色に現れ出たものである。
 歌い踊ってしゃべって笑うのと泣いて叫んですすり泣くのとは、吉凶憂愉の情が声や音に現れ出たものである。
 焼き肉白米酒刺身と漬物まめがゆ水野草とは、吉凶憂愉の情が飲食に現れ出たものである。
 色鮮やかに刺繍があるのと色染めもなくてつぎはぎがあるのとは、吉凶憂愉の情が衣服に現れ出たものである。
 冷房暖房羽毛布団にソファに机と雨漏り隙間風せんべい布団に座布団ちゃぶだいとは、吉凶憂愉の情が住居に現れ出たものである。
 
 憂と愉の二つの情は人なら生まれたときから備わっているものであり、もしも、これを断ってこれを継いで、これを博くしてこれを浅くして、これを益してこれを損して、これを類してこれを尽くして、これを盛んにしてこれを美にして、本末始終において、これらの善い面に従い親しんで純粋に備えて、万世の法則として何の不足もないということであるならば、これがすなわち禮である。従順で修養の行き届いた君子でなければこれをしっかりと知ることはできない。

十一章

 だから言うのだ。性(人間が先天的に生まれ持つ性情)とは本始材木であり、偽(人がなす後天的な行為)とは文理隆盛である。性がなければ偽を加えることはできず、偽がなければ性だけで自ずから美しくなることはできず、性と偽とが合わさってそうしてから聖人は名を成して、天下を一つにする功績もここにおいて成就するのであるのだと。

 この故に言うのだ、天と地が合して万物が生じて、陰陽が交わって変化が起こり、性と偽が合わさって天下が治まると。

 天はものを生じることはできてもそれらを治めることはできず、地は人を載せることはできても人を治めることはできず、宇宙万物で生きているものは皆、聖人によってはじめて分別されて治まるのである。詩経 周頌に「多くの神々懐柔し 河と山にもこれは及ぶ」とあるのはこのことを言っているのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■この部分は、禮が何であるか、ということと、荀子性悪説の核心部分たる理論が展開される、とても重要な部分である。

■また、それゆえか、易経に代表されるような、陰陽思想からの意見も他の部分と比べて随分多い。私としては、荀子易経にかなり通じていたことと、易経が多くの人にとって受け入れ難いものであるという理由によって、易経の事については書き著さなかったことを確信したのであった。