136.荀子 現代語訳 正論第十八 二章

二章

 世間で説を展開している人は、このように言う。桀王と紂王は天下を保っていたのに、湯王と武王はこれを簒奪したのだと。

 しかし、これはそうではない。桀王や紂王が、嘗ては天子の位に居たということはその通りである。そして、自分では天子の位に居たつもりであるということもその通りである、そうではあるのだけど、天下が桀王や紂王の下に在ったのかというとこれはそうではないのである。

 古くは、天子は千の官職を授けることができて、諸侯は百の官職を授けることができた。この千の官職によって政令が国に行われているのならばこれを王と言って、この千の官職によって政令が自領の中で行われていて、仮に国が安泰でなかったとしても滅亡しさえしていなければ、これを君と言う。

 聖王の子孫が天下を保って後、その位がある所なら、それは天下の中心というべきところである。そうであるけれども、その位にある人に、才能がなくて中を得ることができないのなら、内では百姓がこの人を憎み、外では諸侯がこの人に背いて、近いところでは領内が一つになることもなく、遠いところでは諸侯が従うこともなく、政令が領内で行われることもなくて、甚だしいものでは諸侯に土地を削られたり攻められたりする。このようであるのならば、未だ亡びていないとしても、私はこれを天下を保っていないと言う。

 聖王が没して、その位を保つ者が罷弱であるのならば、天下を均衡するには力が足らないのであり、このように天下に君がないとき、天下に徳が明らかで威を積んでいる者があるのならば、海の内に居る人は皆、この人を君師とすることを願うのである。

 このようであるのに暴国だけが独りほしいままに物事を行っていれば、この暴国の君主は誅殺されて民は傷害を受けないべきであり、暴国の君を誅殺することは、独夫を誅殺することと何も変わりはないのである。このようであるのならば天下が治められていると言うことができる。そして、よく天下を治める者こそが王と言われるのである。

 湯王や武王は天下を取ったわけではない。その道を修めてその義を行って、天下で同一の利を興して天下で同一の害を除いて、そうして天下がここに帰したのである。

 桀王や紂王も天下を去ったというわけではない。禹王や湯王の徳に反して礼義の分を乱して、禽獣と同じ行いがあってその凶を積み上げてその悪を全うして、そうして天下がここ去ったのである。

 天下がここに帰することを王と言って、天下がここを去ることを亡ぶと言う。だから、桀王や紂王は、そもそも天下を保っていなくて、湯王や武王が君臣の義に反して君を殺したわけでないということは、このことによって明らかである。

 湯王や武王は民の父母であり、桀王や紂王は民の怨賊である。今、世間で論説を展開している者には、桀王や紂王を君であるとして湯王や武王がこれを君臣の義に外れて殺したのだと言う者がある。そうであったとしたら、民の父母を責めて民の怨賊を師とすることになる。不祥であることこの上無い。

 天下の合している所のことを君とするならば、天下は一度たりとて桀王や紂王に合していない。そうであるならば、湯王や武王が君主を殺したとすることはできなくて、それは誹謗しているに過ぎない。

 だから、天子は然るべき人のみであるのだ。天下は至重であるから至強の人でないとこれに耐えることはできないし、至大であるからには至弁の人でないとうまく分けることもできないし、至衆であるからには至明の人でないとこれをよく和することなどできない。

 この三至は聖人でなければこれを尽くすことなどできない。だから、聖人でないと王となることはできない。聖人とは道を備えて美を全うする者である。これは天下を均衡することの権称(条件)である。

 桀王や紂王なる者は、その智慮が至険であり、その志意は至闇であり、その行為は至乱である。親戚ですらこの人を疎んじて、賢者すらこの人を賤しんで、生民はこの人を怨んで、禹王や湯王の後裔であるにも関わらず一人も仲間が居ない。比干の心臓を割いて、キ子を捕えて、自分自身は殺されて天下の大辱となり、後世で悪を語る者は必ずこの人のことから考える。これは妻子にすら容れられない道である。

 だから、至賢であるならば四海を糾合することができ、これが湯王と武王である。至罷であるならば妻子にすら容れられない、これが桀王と紂王である。

 今、世間で説を展開している者で、桀王や紂王が天下を保っていて、湯王や武王が臣下であったとする者は、その過っていることどれだけ甚だしいことか。これを例えるならば、ニセ霊能者やエセ占い師が自分事を知者としているようなものある。

 この故に、国を奪ったようなことはあるかもしれないが、天下を奪うということはないのであり、国を盗み取るということはあるかもしれないが、天下を盗み取るということはなかったのである。

 そうであるならば、奪って国を保つことはできても天下を保つことはできないし、盗んで国を保つことはできても天下を保つことができないとは一体どういったことか。

 これに答えて、国は小さいものしか備えていないから、小人によって保ち小道で得て小力で持することもできようが、天下は大きいものを備えているのだから、小人によって保てず小道で得ることはできず小力で持することはできないのである。国であるならば小人でも保つことはできるが、亡びる道を避けることはできない。しかし、天下というものは至大であり、聖人でなければこれを保つことはできない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■いかにも賢人らしい意見であると思う。つまり、天下と国は違うのであり、天子と君主は違うのである。似て非なる者を弁別して正しく判断することが賢人の道である。例えば、アリストテレスは、願望と推測の違いを明らかにしているし、ソクラテスは、知と無知の知との違いを明らかにしているし、釈尊は、欲しいもので満たすかりそめの満足と欲しいものを無くす真の満足の違いを明らかにしている。

■最近は、この儒術をなんとか、現代の民主主義に合一させて、現代の禮義を明らかにしたいと思っているのだけど、この観点からなんとかそれができるかもしれない。国と天下は違うのである。国を知り、天下を知ることができれば、なんとか禮義を明らかにして、現代の王道を説けるかもしれない。