143.荀子 現代語訳 禮論第十九 五・六章

五章

 禮の理は誠に深い、堅白同異の察(堅くて白い石は、堅いことと白いことは同じことであるとか、堅いことと白いことで分かれているとかの詭弁)もここに入り込めばすぐに溺れてしまう。その理は誠に大きい、自分勝手に典籍を作る偏った世間知らずの説もここに入れば喪失されてしまう。その理は誠に高い、慢心して乱暴ににらめつけてはその場限りの思いつきをして風俗を軽んじて驕り高ぶるようなものでもここに入れば墜ちてしまうこととなる。

 だから、墨縄が真っ直ぐに連なっているのなら曲直を欺くことはできないし、天秤がしっかりとかかっていれば軽重を欺くことはできないし、コンパスによって円が設けられれば円形や方形を欺くことはできない。そのように、君子が禮に詳しいのであれば詐欺と偽りで欺くことはできない。

 この故に、墨縄というものは直線の至り、天秤は水平の至り、コンパスは方円の至りであり、禮という者は人道の極みなのである。そうであるのならば、禮に法則を見出すことがなく、禮からかけ離れているのならば、これを無方の民と言って、禮から法則を見出して、禮に従おうとするのならば、これを有方の士と言う。

 禮を中心にして思索するのならこちをよく慮ると言って、禮を中心にして変化することがないのならこれをよく固いと言う。よく慮りよく固くてこれに加えてこのことを好む者は聖人である。

 この故に、天は高いことの極みであり、地は低いことの極みであり、無窮は広いことの極みであり、聖人という者は道の極みなのである。だから、学者は、もちろんこの聖人になることを学ぶのであり、単なる無方の民であることを学ぶわけではないのである。

六章

 禮というものは、財物を実用にして、貴賤を文(かざり)として、多少を異として、隆殺を要とするものである。文理が勝り盛って情用が省かれるのならこれが禮の隆である。文理が省かれて情用が勝り盛るのなら禮の殺である。文理と情用が互いに内と外、表と裏になって並び行われるのなであれば、これは禮の中流である。

 だから、君子は、上にはその隆を致して下はその殺を尽くして中はその中に居り、歩くことや早歩きすることや走ることさえもこれから外れることはない。これが君子の守りどころである。人がこれを保つのなら士君子であるが、これを疎んずるのなら民である。

 この中で、行ったり来たりあちらこちらとあまねくしても、要所要所でその次序を得るのは聖人である。この故に、聖人の重厚さは禮を積むことにあるのであり、聖人の大なることは禮の広さにあるのであり、聖人が高いことは禮の隆にあるのであり、聖人が明らかであるのは禮が尽くされていることによるのである。詩経 小雅・楚茨編に「禮の備わる君子さま 笑うことさえちょうどいい」とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885

解説及び感想

■ここでは、禮と修身の関係を述べている。

■文理、情用は、人の行為の森羅万象を尽くしたとても的確な表現であると思う。
・文とは、質(きじ)を飾り立てることであり、根本的で抽象的な天のはたらきとでも言うべきものを修飾することである。だから、人を人として発展させることを文化と言い、それを説明するものを文章(かざるためのあや)と言う。
・理とは、質(きじ)そのものであり、根本的で抽象的な天のはたらきのことである。だから、物理学や数学を総じて理学と言い、宗教の神妙なことわりのことも教理と言う。
・情とは、人に天然にあるもののことで、自然に発せられるものであり、それはそこにあるものである。だから、人の発するものを感情と言って、そこにあることを知ることを情報と言う。
・用とは、人が物を制することで、人が物に手を加えることであり、それはそこのものを使うことである。だから、人が使うもののことを実用品と言って、そこのものを使うことを用いると言う。
▼こうして考えてみるに、情は文によって中を得て、用は理によって中を得るのあり、文は情によって中を得て、理は用によって中を得る。かと言って、これらは、それぞれお互いに相殺する関係にはない。つまり、情が過ぎたからと言って文が殺がれるわけではなく、文が過ぎたからと言って情が殺がれるわけでなく、用に過ぎたからと言って理が殺がれるわけではなく、理が過ぎたからといって用が殺がれるわけではない。こういったことの陰陽思想とでもいうべきものが、この部分には絶妙な表現によって現されていると思う。