法と禮の関係について

法と禮(礼)は同じものなのか、違うものなのか、ということで、いろいろ研究らしきことをしていたのだけど、この二つのものの違いが分かった。

つまり、法は禮の一部分でしかない。ということである。

現在の法で規制できることは、あくまで行動などだけであり、憲法も含めた法は行動規範ではあるけれど、それは禮の行動規範に比べて実に限定的なものとなる。

例えば、怒りという感情によって暴力を行い、人に危害を加えれば、当然のように、行動規範である法に制限されるところの行為となり、法によって制限されているとともに、このことによって刑罰その他の損を蒙ることとなる。

これに対して、怒りという感情によってしかめっつらをして、多くの人に不快感を与えたとすると、これは明らかに法とは全く関係のないことであって、法という行動規範によっては制限できないけれど、禮という行動規範によっては制限されている。

この例えで、「怒りという感情」を使ったのは、意味のないことでない。法では、この「怒りという感情」に何の規範を示すこともできないが、禮であると、この「怒りという感情」そのものに対して規範を示すことができるのである。

多くの人が法を守るだけの場合と、多くの人が禮を規範とする場合では、どちらが世の中が治まって、どちらが世の中が乱れるかは言うまでも無いことと思う。

また、こういったわけであるから、法が繁多になるのは至極当然のことである。

つまり、禮を規範とすることで社会を治めれば、社会の構成要素である人間、そして人間の行動動機である心に対して、わりと近いところから規範を示せるのに対して、法による規範であると、この心から一つ離れた行動にしか規範を示すことができない。

よって、「怒りという感情」に規範を示せばそれで全てが治まることは多くあるだろうが、法ではこの「怒りという感情」によって起こる全ての事の一つ一つそれぞれに対して規範を示さないとならなくなる。こういったわけであるから、必然的に法は禮よりも繁多なものとり、繁多なものとなればややこしくなり、ややこしくなれば弁えることができなくなり、弁えることができなくなれば世は乱れることとなる。

またこのように、別の言葉で整理することもできるだろう。

法>倫理>道徳 (法は皆が守らなければならないものであり、倫理は皆で守ろうとするものであり、道徳はそれぞれが守った方が善いもの)

法>禮(法は皆が守らなければならないものの規範であり、禮は皆で守ろうとするものと、それぞれが守った方が善いものの規範である)

この禮と義との関係もなかなか難しいものではある。が、別次元性の話を持ち出せば、これにもある程度の了解を得ることができる。つまり、禮は規範であるけれど、義は理論的に導かれた理想である。だから、義に反していないくても礼の規範に背く場合もあることになる。