史記を読んでいて6

最近は、史記の秦の始皇帝の辺りを読んでいるのだけど、いろいろと考えさせられる。

秦の始皇帝は、はっきり言って単なる独裁者のキチガイで、まともに生活していたら友だちや知り合いは一人もなく、家族にすら取り合ってもらえないほどの人だったと思われる。そうであるのだけど、皇帝という最高位に居たまま天寿を全うした。

しかし、結局のところは、趙高という宦官が二世皇帝を騙して自分の思い通りにやり出したため、その後で秦帝国はあっさりと滅亡してしまうことになる。

秦の始皇帝の家臣で有名でしかも功績があったのは、宰相の李斯と、将軍の蒙恬であろうけど、この二人も趙高によて冤罪にかけられ殺されてしまう。

李斯は荀子の直弟子であり、秦が天下を統一して李斯が人臣位を極めたとき、李斯が「荀卿先生が、最高の時を作ればその後は下降するばかりになるから、なにごとも極めてはならない。と言っていたなぁ。しかし、私は位人臣を極めてしまった」と言う場面や、死ぬ間際にも荀子を思い出す場面が描かれていて、なんとも言えない気持ちになった。

しかし、秦が天下統一に向かったことが李斯の功績であるならば、秦が滅びに向かったのも実は李斯の責任なのである。というのも、この二世皇帝、実は始皇帝の遺言通りの人でなくて、遺言を預かった趙高が勝手に決めた人なのである。だから、その後、ものごとが趙高の思い通りに進んでしまった。

そして、このことを知っていたのは、李斯と趙高と二世皇帝だけなのである。つまり、李斯もこの陰謀に一枚噛んでいて、そういった意味で秦の滅亡にかなり責任があるのだ。このようなこともあったからか、趙高から冤罪をかけられたとき、同時に冤罪をかけられた人は自殺してしまったのに、李斯は最後まで自殺せず、殺されるそのときまで拷問に耐えて、趙高の悪事と自身の無罪について訴えている。

これが、物語的には、歴史の分かれ目みたいに読める。しかし、秦が滅んだのは、その政治があまりにも苛烈だったからで、荀子の中にも記述があるように「人を武力で脅して働かせ、こうして農事をやらせて窮屈な生活をさせて、戦争での功績を挙げるより他に、何も良いことがなかった」のである。だから、李斯があの土壇場で、始皇帝を裏切ったのもある意味歴史の必然みたいなものだったと思う。

このように秦が滅んでから、項羽と劉邦が争って、その闘いに劉邦が勝ち、漢王朝が開かれることになる。しかし、晩年の劉邦も、多大なる功績を挙げた将軍である韓信をはじめとする何人かを冤罪も同然で殺している。

功績を挙げた人を殺せば、皆は頑張った人も殺されるのかと思い、頑張った人も殺されると思えばがっかりして、がっかりすれば心が離れることになる。しかし、漢はその後四百年続くことになる。

これはどうしてなのだろうか。一つは、秦の苛烈な政治の後に、わりと緩い政治が行われたこともあるだろう。しかし、それだけではないと思う。というのも、そこに劉邦の人徳とも思えるものがあるからである。劉邦は、天下統一の前から、人の意見を容れる人であった。劉邦はライバルの項羽のことをこのように評価している。「項羽は、ハンゾウ一人使えなかったのに、自分は、多くの有能な家臣を持った。これが自分の勝った理由だ」と、また処刑前の韓信劉邦をこのように言っている「私はあなたより軍略でははるかに優れていますが、あなたは将の将たる人なのです」と。

このような劉邦も、流石に敵が居なくなると、少し頑固になる。これは当然のことで、現代、社長と呼ばれている人が、多くワンマンで人の意見を容れないことからも簡単に察しがつくことである。こういった人は、偉いことと賢いことを混同してしまっているだけなのだけど、まあ、それはおいておいて、このようなワンマンに陥りやすい状況になっても、劉邦は、人の意見を聴いて自分の意見を変えた。そして、後で失敗だと分かれば、自分の非を認めた。これが秦と漢の違いの二つ目である。