8.荀子 現代語訳 勧学第一 九章

九章

 百発に一発でも矢が的から外れるのなら、それは善い弓引きとは言えない。千里の道にわずか半歩だけ及ばなくても、それでは善い御者とは言えない。倫理道徳に通じないで、全てを仁義に帰することができないならば、善い学者ということはできない。

 学問とは固く学んで全てを一つの所に帰することなのである。(●学なる者は固く学んでこれを一にするものなり)あるいはこの一に入ったり、あるいはこの一から出るようならば、それは放浪者というものである。

 この放浪者のうちでも、善なる者が少なくて不善なる者が多いのが、桀・紂・盗跖である。この一にすることを全くしてそうしてはじめて学者なのである。

 君子は、全からず純粋でないことの善美とするには足らないことを知っている。だから、先哲の教えを暗唱して理性的な判断でこれを貫き、思索をすることによってこれを多くのことに当てはめ、その人を択んで適切な対応をし、その害があることは除いて、これを持続して養うようにする。

 そして、目はこれでないのなら見させないようにし、耳はこれでないのなら聞かせないようにし、口はこれでないのなら言わせないようにし、心はこれでないのなら動かないようにする。

 この極地に至って遂に好むことができるようになると、目はこれを五色よりも好み、耳はこれを五声よりも好み、口はこれを五味よりも好み、心はこれを天下を保つことよりも利のあるものとする。

 こういったことであるから、どんな権力や利益でも心を傾かせることはできず、群衆によっても心を移させることはできす、天下によっても心を動かすことができない。生まれもこれをよりどころとして、死もこれをよりどころとする。こういったことを操徳と言う。

 操徳があって定まることができ、定まることができて後、応じることができるようになる。定まることができていて応じることができる人、こういった人を成人という。 (●能く定まりて能く応ず、夫れ是れを成人と謂うなり)

 天はその光明をあらわし、地はその広大であることをあらすが、君子はその全きことを貴ぶのだ。(●天は其の明を見わし、地は其の光(広)を見わす、君子には其の全を貴ぶなり。)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■学問の必要性、学問の概要、学問のやり方を明らかにしたので、ここで学問の極致を明らかにしている。

■一とは仁のことであろうが、論語子罕にもあるように、これは簡単に述べることはできないから、それ、これ、一、全、などの代名詞を用いて敢えて漠然なものとし、そうすることによって輪郭を浮き彫りにして、読者に想像させるようにしている。

菜根譚74より 十の推測のうち九しか当たらないのなら、それでは不思議なことと言うことはできない。その当たっていない一つに非難が群がり起こるだろう。十の謀りごとのうち九しか成功しないなら、それでは功績があるとは言えない。その成功しなかった一つに苦情が群がり起こるだろう。君子が黙っていて簡単に動かず、それよりむしろ稚拙で功がないように見えるのはこういった理由からである。▼冒頭の百発百中に関連して挙げておいた。私は占いもできるのだけど八割しか当てることはできない。その悩んでいる人の心を助けるという意味では百発百中であると思っているのだけど、それでもハタから聞くとそうは思わないようである。逆に事実を当てないことがその人の助けとなることもあるからである。

論語雍也第六より 「子曰く、回やその心三月仁に違わず。その余はすなわち日に月に至るのみ。」孔子の弟子の中でも高弟である顔回は、心が仁から離れることがない。これに対して他の弟子たちは、時折、心に仁があるだけである。

■桀(夏王朝を滅ぼした人物・殷の湯王に誅される)・紂(殷王朝を滅ばした人物・周の武王に誅される)・盗跖(むかしの中国の大泥棒)これら三者はよく悪い人のたとえとして出される。

論語衛霊公第十五より「子曰く、已んぬるかな、吾未だ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり」なげかわしいことだ。私はいまだかつて、徳を好むことが、女色を好むかのような者を見たことがない。

■大学経一章より「止まるを知ってのち定まる有り、定まりてのちよく静かに、静かにしてのちよく安く、安くしてのちよく慮り、慮りてのちよく得。」止まることを知って定まるところがあり、定まることができて静かにすることができる。静かならば心がゆったりと窮屈でなくなり、心がゆったりと窮屈でないなら思慮することができる。思慮ができるならば善く得ることができる。

論語顔淵第十二より「顔淵仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日も己に克ち礼に復れば天下仁を帰(ゆる)す。仁を為すこと己に由る、人に由らんや。顔淵曰く、其の目を請ひ問う。子曰く、礼に非(あら)ざれば視ることなかれ、礼に非ざれば聴くことなかれ、礼に非ざれば言うことなかれ、礼に非ざれば動くことなかれ。顔淵曰く、回、不敏といえども、請うこの語を事とせん」