9.荀子 現代語訳 修身第二 一章

修身第二(修は本当は脩:ほしにくなど、そこから転じてすらっとした様:smart)

 善を見るときはその良さを認めて必ず自身を省察し、不善を見るときはそれを憐れみ悲しんで必ず自身を省み、善が自身にある時は堂々として必ずそれが自身にあることを好み、不善が自身にある時はその荒れ果てて無意味なことを嘆いて必ずそれが自身にあることを憎み嫌う。

 だから、私を非として接し事実それが当っているのならその者は自分の師であり、私を是として接し事実それが当っているのならその者は自分の友であり、私に媚びへつらう者は自分の賊である。(●我を非として当る者は吾が師なり。我を是として当る者は吾が友なり。我に諂諛する者は吾が賊なり)だから、君子は師を尊んで友に親しみ、その賊については極めて嫌い、善を好んで飽きることがなく、注意を受ければよく自分のことを戒める。進まないでおこうと思っていも進まざるを得ない。

 小人(つまらない人)はこれと反対だ。乱を極めながらしかも人が自分を非とすることを憎み、愚か者であることを極めながらしかも人が自分を賢いとすることを望み、心は虎狼のようで行いは鳥や獣と変わらないのにしかも人が自分を賊だとすることを嫌う。そうして、こびへつらう者には親しんで、忠告してくれる者からは遠ざかり、身が修まっていて正しいことを笑って、ほんとうの真心を賊とする。滅亡しないでおこうと思っても滅亡せざるを得ない。

 詩経(小雅・小旻篇)に「素早く和して集まって、これだこれだと批判する。ああ、哀しいことよ、善いことになると意見が分かれ、悪いことになると共に行動する」とあるのは、このことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■修身の概要を明らかにする。修身の要は善言と善行を容れることにこそあることを明言し、それが自身の繁栄につながることを明らかにしている。小人のことにも触れたのは、修身をしないとどうなるか、その最悪の末路を明らかにし、修身の効用を鮮烈にすると同時に、そちらの道に進むことを戒めている。

■小人に関する表現が、実に的確であると思う。これは、小人にある程度長く接さないとわからないことと思う。荀子には他にも小人に関することが出てくるけど、荀子は間違いなくそういったことで多くの苦労をしたのだと思う。しかし、こういった人間を目の当たりにして、これと反対の道を知っていればいるほど、こういった人がいかに憐れな人かと思えてくるものである。世の中には、悪いことをして得をしたとか、良い思いをしている、と思っている人が多くいるようだけど、はっきり言って、それは勘違いも甚だしいと言うもので、その人たちの感じている喜びは、修身や仁慈に志している人の喜びにはかなり遠く及ばないものである。