10.荀子 現代語訳 修身第二 二・三章
二章
いつでもどこでも善なる法度。
気を治めて養えば「きんさん・ぎんさん」よりも長生きでき、身を修めて励むのなら名は堯・兎にも匹敵し、順境に居てもよろしく、逆境に居ても利がある。礼とはまことにこう言ったものである。
おおよそ血気・志気・智慮を用いるのに、礼に由れば治まって通ずるところがあるが、礼に由らなければ乱れが勃発して停滞が生まれる。(●凡そ血気・志意・知慮を用うるに、礼に由れば則ち治通するも、礼に由らざれば則ち勃乱提慢す)
飲食・衣服・居処・動静も、礼に由れば調和があって適切であるのだけど、礼に由らないのならそれらが関わり合って悪循環を起こし病気を生み出すこととなる。
容貌・態度・進退・趨行も、礼に由れば雅な奥ゆかしさがあるのだけど、礼に由らないのなら融通がなくてだらしなく俗っぽくて粗野になる。
だから、人に礼がなければ生きることはできず、事に礼がなければ成就させることができず、国家に礼がないのならば安寧が訪れることはない。(●人に禮なければ則ち生きられず、事に禮なければ則ち成らず、国家に禮なければ則ち寧からず)
詩経(小雅・楚茨篇)に「礼儀は全部に度があるよ、笑うことさえちょうどいい」とあるのは、このことを言ったのである。
三章
善で人を導くことを「教」という。
善で人と和同することを「順」という。
(●善を以て人を先びくはこれを教と謂い、善を以て人に和するはこれを順と謂う)
不善で人を導くことを「陥」(おとしいれる)という。
不善で人と和同することを「諛」(ユ:へつらう)という。
是を是として非を非とすることを「知」という。
是を非として非を是とすることを「愚」という。
良を傷つけることを「讒」(ザン:讒言で嘘の悪口を吹き込むこと)という。
良を害することを「賊」という。
是を是と言って非を非と言うことを「直」という。
財貨を盗むことを「盗」という。
行いを隠すことを「詐」という。
言っていることを変えることを「誕」(うそ)という。
振る舞いに一定の法則がないことを「無常」(恒が無い)という。
利益を優先して義(義務:権利の範囲)を逸脱することを「至賊」という。
多聞を「博」という。
少聞を「浅」という。
多見を「閑」(慣れて落ち付いている)という。
少見を「陋」(狭い)という。
進歩しにくいことを「堤」(本当はにんべん・なずむ)という。
忘れやすいことを「漏」(もれる)という。
少なくて理があることを「治」という。
多くて乱れることを「耗」という。
まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885
解説及び感想
■修身においての度(はかり・目安)とも言うべき礼の輪郭を表している。その後は、言葉の定義をすることで、修身の細かい項目の度(はかり・目安)を明らかにしている。
■長寿のたとえは、700まで生きたとされるホウソという名があったのだけど、あまりにもピンとこないと思って変えておいた。堯・兎は、古代の伝説的な王で、これは逆に現代ではピンとくるものがない。当時の中国では、キリスト教の神Godにあたるくらいの人物達。
■長寿のところに「気」とあるけど、これは孟子の「浩然の気」を参照するのが良いと思う。公孫丑(コウソンチュウ)章句上を参照されたい。現在、一般的に思われる「気」と、荀子の言う「気」は少し違う。儒教においては、後にも出てくるが、怪しいこと・不可思議なことを探究したり行おうとしたりしない。