56.荀子 現代語訳 儒効第八 五章

五章

 私は、賤しい身分から貴い身分に、愚か者から賢い者に、貧しい人から富める人へとなりたい。できるだろうか。

 答えて言う、それならば、ただ学べ。(●我れは賤よりして貴く、愚よりして知に、貧よりして富まんことを欲す。可ならんか。曰く、其れ唯学か)

 かの学問というものは、これをするのなら士となれるものであり、これを篤く慕うのならば君子となれるものであり、これを知れば聖人となれるものである。(●彼の学なる者は、これを行えば曰ち士なり、焉れを敦慕むれば君子なり、これを知れば聖人なり)

 上は聖人、下は士君子になろうというのに、誰が自分を止めるだろうか。

 はじめは、いろいろなところに出たり入ったりするようなデタラメな人だったのが、学問をすればにわかに堯や禹と並ぶことができるようになる。これを賤しい身分から貴い身分になったと言わずにおけようか。

 はじめは、門と部屋(暗に学問の入り口と内部を例えているのだろう)の違いをも混同してしてしまって弁別することができなかった人が、学問をすることでにわかに、仁義に基づいて是非を分かち、天下を掌の上でめぐらすこと、黒と白を見分けるがごときのようになる。これを愚者から賢者になったと言わずにおけようか。

 はじめは、全く何も無い人だったのに、学問をすることでにわかに天下を治める大器がここにあるようになる。これを貧しい人から富める人になったと言わずにおけようか。

 今、けちけちして数千億円をため込んだ人がいて、この人が道で物乞いのようなことをしていたとしても、多くの人は、みなこの人を富める人と言うであろう。彼の宝、天下を修める大器は、着ようとしても着ることはできないし、食おうとしても食うことはできないし、売ろうとしても速やかに売れるものではない。(●彼の宝天下を治めるの大器なる者は、これを衣んとするも衣るべからず、これを食わんとするも食うべからず、これを売らんとするも疾かにはうるべからず)そうであるのに、多くの人がこの人を富める人だと言うのはどうしてか。それは、大富の器が誠にそこにあるからなのである。これも満足した富める人である。どうして、貧しい人から富める人になったと言えないだろうか。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■あー、遂に荀子言ってくれましたか。という感じがする。そう、富めることとは、全くもって、金を多く持っていることとは別なのである。ここにけちけちした物乞いをする億万長者が出てきたけれど、この人は、今持つ億万の富に満足できないで、けちけちして物乞いをしているのである。どうして、満足していない人間を富める人と言えようか。さあ、どんどん真実に近づこう。彼のゴルフ三昧、贅沢三昧、高級車三昧のあの人は、それだけの無駄な遊びをしているのに、まだ飽き足らずに次の遊びを探している。どうして、こういった満足していない人を富める人と言うことができようか。さあ、この学問を好む人を見てみよう。彼は、肘で枕をして、食べ物はおかゆだけで、一日にひょうたん一杯の水しか飲まない。なのに、それ以上を求めない。彼が求めるのは、学だけで、仁の大器とともに、学問をしながら終日満足している。どうして学ぶことに満足したこの人を貧しい人と言うことができようか。

論語・為政第二より「政を為すに徳を以てすれば、たとえば北辰其の所に居て而して衆星の之に共ふがごとし」

論語・八イツ第三より「或人禘の説を問う。子曰く、其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸を斯に示るが如きかとその掌を指さす。」