5.荀子 勧学第一 六章

六章

 君子の学問は、耳から入ると、まず心に入って、そうして体中に染み渡り、動きとなって現れる。小さい声でささやくことでも、ほんの少しだけ体を動かすことでも、全て一つの法則とすることができる。

 小人(つまらない人)の学問は耳から入ると口から出る。口と耳の間はわずかに十数センチしかない、このようなありさまで、どうしてその10倍以上もある大きな体を美しくすることができようか。

 昔の学者は自分自身のために学問をしたが、今の学者は人に聞いてもらうために学問をしているに過ぎない。

 君子の学問は己の体を美しくするためのものであり、小人の学問は人にこびを売るための贈り物でしかない。(●君子の学は以て其の身を美にし、小人の学は以て禽トクを為すのみ)

 だから問われていないのにそれを告げること、これを傲(さわがしい)と言い、一つしか問われていないのに二つのことを告げること、これを囋(うるさい)と言う。さわがしいことも宜しくないし、うるさいことも宜しくない。君子は響きのようなものだ。(●君子は響の如し)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■前章で学問の概要を挙げ、ここで学問の目的を明らかにする。学問とは栄達出世のためにするものではなくて、自分自身のためにするものである。この自分自身という言葉の中にはいろいろな意味もあるであろう。

論語 術而第七より「子曰く、憤せずんば啓せず、ヒせずんば発せず、一隅をもて三隅を以て反せずんば即ち復(ふたたび)せず」(もんもんとしてどうしたらよいかわからない様子にならなければ先を切り開くことを教えてやらないし、言いたいけどそれが言えずにまごつく様子にならなければそのことに関するヒントを告げることはしない、四角形は隅が四つあるけれど、このうちの一隅を教えて、これが四角形であることを推測して、残りの三隅を挙げないようであるならば、まだそのことについてすぐには教えてやらない。▼教えることに関する言葉だけど、時節を得て言うこととして関連があるのでここに挙げた。

論語 季氏第十六より「孔子曰く、君子に侍るに三エンあり。言いまだこれに及ばずして言う、これを躁という。言これに及んで言わず、これを隠という。いまだ顔色を見ずして言う、これをコという。」君子と一緒にいる場合には三つの気を付けるべきことがある。1.躁(さわがしい)会話がそのことに触れていないのに、急に別のことを口に出すこと。2.隠(だんまり)会話があることに触れて、自分はそのことを知っていて言うべきであるのに言わないこと。3.コ(雰囲気を読まない:ケーワイ)顔色を見ないでしゃべること。▼これを読んだ時は君子は難しい人だなぁとか思ったのを思い出した。でもこれらのことを実際に行うのは、簡単なようでとても難しいことだと思う。