6.荀子 現代語訳 勧学第一 七章

七章

 学問は、その学問の成就している人に近付くことより便利なことはない。(●学はその人に近づくより便なるはなし)

 礼経楽経は、大きな決まりごとを漠然と示すのではあるのだけど、それをわかりやすくはしてくれない。詩経書経は古いこと(時代に合致していないこと)ばかりなので親切ではない。春秋経は出来事が簡単に羅列されているだけですぐに理解することができない。

 学問の成就した人に就いて君子の説を習うならば、これこそ尊いことで、世をあまねく知ることができる。(その人によりて君子の説を習わばすなわち尊くして世に徧周す)

 だから言うのだ。学問はその学問を成就している人に近付くことより便利なことはないと。また、学問の道はその人を好むことより速やかであるということはなく、礼を尊ぶことは次善でしかない。(●学の経はその人を好むより速やかなるは莫く、礼を隆ぶことはこれに次ぐ)

 その人を好むこともできないで、礼を尊ぶこともできないならば、それはまさに趣味を習って詩経書経に従おうとするだけのことだ。それでは世を隠居して年をとったとしても、耳の聞こえない学者であることを免れることはできない。

 まさに、先王の聖跡をもとにして仁義を本にしようとするならば、礼こそがその通るべき道というものである。服のえりを後ろから五本の指で引っ張れば、ほとんどの人は後ろにのけぞってしまうだろう。礼を尊ぶとはこのようなことである。もしも、礼のおきてに従わないで詩経書経で学問をしようとするならば、これを例えれば、指で川を測り、槍で餅をついて、キリで壺の中の梅干しを取ろうとするようなことである。こんなことで何を得ることができようか。

 だから、礼を尊ぶならば明達とは言えなくても法則のある士であるし、礼を尊ばないのならば察すること深く弁えること多くとも散漫な者なのだ。(●礼を隆べばいまだ明ならずといえども法士なり。礼を隆ばざれば察辯なりといえども散儒なり)辯:弁の旧字体


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■学問はどのような方法で進めるべきか、ということについて述べている。最もよいのは、善き人に就くことであり、次善として礼を尊ぶのである。

■就くべき善き人:師とはどんな人か、礼とは何か、となると、これもまたとても難しい事である。荀子の現代語訳が進むにつれて少しずつ明らかになっていくと思う。

■私は、荀子には師という師がいなかったのではないかと思う。先生に就いて学ぶことほど速やかであることはない。これは紛れもない事実だ。しかし、このことは、逆に先生がいなかった者にしかわからないことであると思うからだ。あと、韓非子もそうだけど、荀子からも、なんとも言えない孤独の臭いがする。

論語李氏第十六より(長いので現代語訳だけ)陳コウが孔子の実の息子である鯉に問うて言うには、「あなたは他の弟子では聞けないようなことを先生から聞いたことがありますか」「そのようなことはありません。父が庭で一人で立っているとき、私がその前を走って通り過ぎようとしましたら、『詩を学んだか』と言われました。私が『まだです』と答えると『詩を学んでないなら言うということはできないはずだ』と言われました。そこで詩を学びました。また別の日に『礼を学んだか』と問われたので『まだです』と答えると『礼を学んでいないなら人として立つことはできない』と言われました。そこで礼を学ぶこととしました。」陳コウはこの話を聞いて喜んでこう言った「私は、一つのことを聞いて三つの教えを知ることができた。一つ目は詩を学ぶべきこと。二つ目は礼を学ぶべきこと。三つ目は君子は自分の子供にえこひいきをしないこと。これらを知ることができた。」