46.学問のすすめ 現代語訳 十一編 第一・二段落

十一編

名分によって偽君子が生まれてくる方法

第一段落

 第八編に、上下貴賤の名分から夫婦親子の間に生まれる弊害の例を示して、その害が及ぶところはこの他にもまだ多いことの次第を述べた。そもそもこの名分がどういった所から起きているのかと考えてみると、その形としては、強大な力で弱小を制することではあるのだけど、その本意は決して悪念から生まれたものではない。

 つまるところは、世の中の人全てがことごとく愚かではあるが善人ではあると思って、これを救ってこれを導き、これを教えてこれを助けたものなのである。そうして、ただひたすらに目上の人の命令に従って、かりそめにも自分の意見を言わせないようにし、目上の方に当たる人は大抵は自分の思うようにして、うまくいくように取り計らって、一国の政治も一村の支配も、店の始末も家のことも、上下が心を一つにして、あたかも世の中の人間交際を親子の間柄のようにしようとしているのである。

第二段落

 例えば十歳前後の子供を取り扱うのには、そもそも意見を出させないようにしなければならず、立ちていは両親が見計らって衣食を与え、子供はただ親の言うことを聞くようにしてその指図に従ってさえいれば、寒い時には温かい服が用意されていて、腹の減ったころには既に飯の支度が整っていて、飯と着物はあたかも天から降ってくるようなもので、自分が欲しいと思った時にそれを得ることができて何一つ不自由なく安心して家に居ることができる。

 両親は自分の身にも代えられぬ愛しいわが子であるからには、これを教えてこれを諭して、これをほめるのもこれを叱るのも、全部真の愛情から出ることばかりで、親子の間は一体のようなものであり、その快いことは例えることができないほどである。すなわちこれが親子の交際であって、その際には上下の名分も立ち、かつて差支えがあったということはない。

 世の中で名分を主張する人は、この親子の交際をそのまま人間の交際に写し取ろうする考えであって、随分面白い工夫のようではあるけれど、ここには大きな差支えがある。親子の交際は、ただ知力が熟している実の父母と十歳ばかりの実の子供との間にのみ行われるべきなのであって、他人の子供に対してはそもそもできそうもないことである。たとえ実の子供であったとしても、もはや二十歳以上になれば次第にその趣も改めざるを得ない。ましてや、既に大人となった他人と他人の間でこの親子の交際が成り立つだろうか。とてもこのような交際ができるはずがないのである。いわゆる願いはするのだけど到底できないこととはこのことである。

 さて、今、一国といい一村といい、政府といい社会いい、そういったすべての人間交際に名が付けれられているものは、大人と大人の仲間であり、他人と他人の付き合いである。この仲間付き合いに実の親子のやり方を用いようとすることは甚だ難しいことではないだろうか。そうとは言っても、実際行われないようなことでも、これを行って極めて都合が良いだろうと心に想像するものは、その想像を実際に施したいと思うのもまた人情の常というもので、これがすなわち世に名分と言うものが起こって専制の行われた理由である。だから言う、名分はそもそも悪念から生じたものではないのだけど、想像によって無理に造ったものであると。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■名分があったことによって、人間の歴史に闘争の無い時間があったことは間違いないことと思う。これは少し考えてみればわかる。例えば、会社で皆が皆、「おれが社長になるんじゃ」と言って、それを行動に移していたら、その会社では争いごとが絶えないだろう。中には正々堂々とした善いやり方でそれを競う者もいるだろうが、やはり人の足を引っ張ることでその争いに勝とうとする輩も当然いるわけで、こういった人間が一人でもいる会社で闘争が皆によって行われると、「あいつは俺の足を引っ張った。じゃあ、俺もあいつの足を引っ張ってやろう」とどんどん争いは下劣になり、遂にはその会社自体が無くなってしまうことは目に見えている。これが名分の大事な理由である。しかし、この半面で、皆が皆、現在の地位に安んじてしまうと何も生まれない。「この会社では、どれだけ頑張っても社長にもなれないし、出世することもできないし、自分の意見が採用されることもない。じゃあ、適当に言うことだけ聞いて、力三分で仕事すればいいや」となることは目に見えている。どんな体制にせよ、極端になるならば、利点であったはずのことが欠点を通り越して弊害となってしまうということであろう。「止まるを知る」ということ、「至善に止まる」「中庸に止まる」ということはやはり何事においても重要ということだろう。