40.学問のすすめ 現代語訳 九編 第一〜三段落

九編

学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文

 人の身心の働きを細やかに見れば、これを分けて二つに区別することができる。第一は、人一人たる身についての働きである。第二は、人間交際の仲間に居てその交際の身についての働きである。

第一段落

 第一 身心の働きで衣食住の安楽をもたらすこと、これを一人の身についての働きと言う。

 そうであるとはいっても、天地間にある万物で、一つとして人間の便利にならないものはない。一粒の種をまくと二三百倍の実を生じて、山深いところにある樹木は世話をしなくてもよく育つし、風は車を動かすし、海は運送の便となり、山の石炭を掘って、川や海から水を汲み、火をつけて蒸気を作れば大きくて重い船や車も自由に動かすことができる。

 この他に、造化の妙工を数え上げればきりがない。人はただこの造化の妙工を借りて、少しだけそれら自然の資源の趣を変えることによって自分を利しているのである。

 だから、人間が衣食住を得ることは、既に造化の手によって九分九厘できたものに対して、人力で最後の一分だけ手を加えているだけであり、人はこの衣食住を造ると言ってはならない。実際のところは道端に捨ててあるものを拾い取るようなことなのである。

第二段落

 それゆえ、人として自分で衣食住をまかなうことは難しいことではない。この事ができたからと言って誇るべきことではない。そもそも、独立の活計は人間の一大事で、汝の額の汗をもって汝の食を喰らえとは昔の人の教えであるけれども、私の考えでは、この教えの趣旨を達成したからと言っても、人としての務めを果たしたとするには足りないのである。

 この教えは、わずかに人を獣より劣ることがないようにしているだけである。試みに見てみよ。禽獣昆虫には、自分で自分の食べ物を得ないものはいない。そればかりか、ひと時これを得て満足するばかりでもない、蟻などははるか彼方の未来を押し測り、穴を掘って住む所を作って、冬のために食糧を蓄えているのではないか。

 そうしてみると、世の中には、この蟻と同じことをして自ら満足している人もいる。今その一例を挙げよう。男子が成長して、あるいは職人になったり、商人になったり、役人となって、ようやく親や朋友の厄介になることから免れて、それ相応の衣食をして他人に対する悪さもなく、借家でない自分の家を作り、家具はまだ揃っていないけど嫁だけはまずとりあえずということで、望みの通りに若い女性を嫁にもらって、身の治まりもついて倹約を守り、子供はたくさん生まれたけれども教育も一通りだけであったからさほど金もいらなくて、病気など何かあったときのための三十円か五十円の金にはいつも差支えがなく、細く長くの長久の策に心を配り、とにも角にも一軒の家を守る者があれば、自分でも独立の活計を得たとして得意な顔をして、世の中の人もこれを見ては不羈独立(ふき)の人物だと言い、人に過ぎた働きをした手柄のように称するのであるけれど、実際のところ、それは大間違いというものである。

 この人はただ蟻の門人(弟子の人)と言うべきである。生涯の事は蟻の右に出ることができない。衣食を求めて家を作るということに関しては、額に汗を流したこともあるだろうし、胸に心配をかかえたこともあるだろう、昔の人の教えに恥じるところはないのだけれど、その成し得た功績を考えてみると万物の霊長たる人の目的は達していないのである。

第三段落

 今述べたように、一身の衣食住を得て、そのことに満足するならば、人間の渡世はただ生まれて死ぬだけで、死ぬときの有様が生まれた時の有様と同じと言うことになってしまう。このようにして、子孫に伝わっていけば、幾百代を経ても村の有様は昔と同じ村のままで、世の中に公の工業を起こす者もなく、船も造らず橋もかけずに、一身一家の外は皆全て天然の成り行きに任せて、その土地に人間が生きたという痕跡を残すことはないだろう。

 西洋人がこう言ったことがある。世の中の人が、満足することを知って小さな安心に安んじていたのなら、今日の世界も天地創世のときと何も変わっていなかっただろう。と。このことは誠にその通りである。

 そもそも、満足ということにも二種類の区別があるのであって、その境目を誤ってはならない。一を得たら二を欲して、そうして、「もっともっと」と遂に限りなしに飽くことを知らないものはこれを欲とか野心と称すべきであるけれども、自分の身心の働きを押し広げて達すべき目的を達さないのであるならば、それは蠢愚(しゅんぐ:無知で愚かな者)と言うべきものである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■かなり荀子の天論に意味がかぶっている。ただ、荀子は、「天だ、天だ、どうしようもない、どうしようもない、と諦めるのでなくて、もっと自分と人間の力を信じろ」と言っているのに対して、福沢は「よいよい、よしよし、これでいい、これでいい、と小さなところに満足してしまうのではなくて、もっと自分と人間の力を信じろ」と言っているように思う。いずれにしても、自主性と、進歩という概念が関わっているように思う。▼進歩とナショナリズムとダーニウィズムの関係上で考察の余地あり。

■前も述べたかもしれないが、福沢と荀子にただならぬ関連性があるように思う。確かに、荀子儒学の中でも一線を画した特異的な部分(それは自主性と論理性というようなものに関わっていると思うのだけど)があり、そのため儒学界では異端的扱いを受けていたそうだ。しかし、無理やり朱子学儒学を教えられていた福沢にとっては、ある意味オアシスのような存在だったのかもしれないと思う。(読む機会があったのか無かったのかはわからないが)