【お知らせ】無料の公開は順次廃止します(検討中)

無料での古典翻訳などの公開は、以下に説明する害の大きさを検討して、順次廃止することとした。

なぜかと言うと、最後まで読まない、或いは、全部読まない人が多いからである。

特に「荀子の性悪篇」だけを読む方がいらっしゃると、私の心はかなりチクチクする。というのも、荀子の性悪篇は大変難しく、私も、荀子のそれまでの篇を読んでやっと理解できたからである。

どういうことかと言うと、それが普通なのであるが、多くの人は、「自分は賢い」と思っている。言い方を変えると、「自分の枠を超えたもの」を想定してない。だから、「荀子の性悪篇」だけを読んで「荀子性悪説」を理解したと勘違いするのだ。

そういったことをされると、私としても「邪説を振りまいた」ことになり、荀子に対して申し訳が立たない。

こういった第一級の古典は、確かに難しい。確かに難しく、わかりやすく翻訳されていたとしてもかなり読むのが面倒である。また仮に、最高の教師に至れり尽くせりの講義を受けたとしても、途中でそれを投げ出したくなるだろう。分からないことに遭遇することは苦痛だし、人という者は、よほど訓練されない限り根気がない者だからである。

しかし、第一級の古典というのは、最後まで読んでこそ意味がある。逆に言えば、全部読まなければ「難しい」ままで終わってしまうし、途中まで読んで分かった気になるとはもっての他の事である。

最後まで読まず、ひと通り目を通すこともできないのに、その真意を知ることなどできるはずがない。よくできても、善言だけを記憶して、それを修身に役立てることくらいだ。しかし、その役立て方も中途半端なものとなり、下手をすると真意が分からず害の方が多い。「生兵法は怪我のもと」と言うが、まさにその通りである。

また、私の経験上、ネット上の記事は、読まないと、そのままになって終わる。

つまり、人間の心理として、「難しいし、疲れているから今度にしよう」というのはよくあることであるが、ネット記事の性質上、一度それをやってしまうと、その記事は埋もれて、記憶の片隅からもなくなり、結局そのままで終わってしまうのだ。

「明日やろうは、やらない野郎」これは私の経験上からも間違いないことである。

「生兵法はケガのもと」「明日やろうはやらない野郎」この二つのことが大前提にあった上で、私自身の心情として、「せっかく見せてあげてるのに」ということがあり、私の気分も害されて「無料での提供は害の方が多いように思う」のだ。

ちなみに、「無料での提供は」というのは、買えば「買ったから」という心理が働いて、全部読む可能性は格段に高まるし、本などの完成物として手元にあれば、いつか読む日も来るかもしれない。ネット記事の性質上、この二点がないから、「無料での提供は害の方が多いように思う」のだ。

私だって、できれば、全部無料で公開したいが、今までの経験上、やはり「ネット上での無料での提供は害の方が多いように思う」のである。

※まだ検討中