39.学問のすすめ 現代語訳 八編 第七・八段落

第七段落

 親に孝行することはそもそも人たる者の当然のことで、老人ならば他人でもこれに丁寧に接するはずである。ましてや、自分の父母に情を尽さないということがあろうか。利のためでもなく、名のためでもなく、ただ自分の親だと思って、天然の心で孝行をすべきである。

 昔から、和漢には孝行を勧める話がとても多くて、二十四孝をはじめとしてそのほかの著述も数えきれないほどにある。そうして、この本を見てみると、十に八九はとても人間にはできないことを勧めているか、または愚かで面白くて吹いてしまうようなことを説いているか、甚だしいものでは理に背くような事をほめて孝行としている。

 寒い中、裸になって氷の上にうつ伏せになってその解けるのを待とうとするようなことは人間にはできない。夏の夜に自分の体に酒をかけて自分が蚊に食われ、親が蚊に刺されないようにするよりも、その酒代で紙帳(蚊をよける大きい紙)を買うことこそ智者の行いであろう。父母を養う働きがなく途方に暮れて、罪もない子供を生きたまま穴に埋めようとするその心は、鬼とも言えるし蛇とも言えるもので、天理人情を害することの極度のものだ。前提として不孝に三ありと言って、子を産まないことをさえ大不孝と言いながら、今ここでは既に生まれた子を穴に埋めて後継ぎを絶とうとする。何でもって孝行とするのか、前後の不都合な妄説でしかない。

 つまるところ、この孝行の説も、親子の名分を正して上下の分限を明らかにしようとして、無理に子を責めるようなことである。どうしてそんなに責めるのかとその理由の所を読んでみると、妊娠中に母を苦しめて、生まれてからは三年の間父母の懐から出ることがなく、その大きな恩はどうするのかとある。そうであるけど、子を産んで子を養うことは人類だけのことでなく、獣でも皆そうなのである。ただ、人の父母が獣の父母と違うところは、子に衣食を与えることのほかに、この子を教育して人間交際の道を知らしめるという一事があるだけである。

 なのに、世間の父母たる者は、子を産むことは知っているのだけど子を教えるということを知らない、自分の身は放蕩無頼であって子弟には悪例を示し、家を汚し財産を食いつぶして貧乏となり、気力が衰えて家の財産も無くなると放蕩が今度は頑固な愚かさになって、そうして自分の子に向かって孝行を責めるとは、果たしてどういった心なのだろうか。相当な鉄面皮でなければこんな破廉恥には至らないだろう。

 父はこの財産を貪ろうとして、しゅうとめは嫁の心を悩ませて、父母の心で子供夫婦の自由を束縛し、父母に理屈が無くてもごもっともで、子供の申し分は少しも立たない、嫁は餓鬼地獄に落ちたかのようで、起居眠食で自由なものもない。ひとつでも、しうとしうとめの意に沿わないものならこれを不孝者と称して、世間の人もこれを見て無理なこととは思いながら、自分の身に引き受けてはいないことであるから、とりあえずは親の不理屈の方に味方して理不尽にもその子を咎めるか、いろいろな人の説に従えば、理屈は関係なしで親を欺けと言って策略を授ける者もいる。どうしてこれを人間家内の道と言うことができるだろうか。私はかつてこういったことがある。しゅうとめの手本は遠からず自分が嫁の時にあったと。しゅうとめがよめを苦しめようと思うのならば、自分がかつて嫁だった時のことを思い出すべきである。

第八段落

 こういったことは、上下貴賤の名分を定めたことによる悪弊であって、夫婦と親子の二つの例を示したものである。世間でこの悪弊が行われているところは甚だに広く、なんでもかんでも、人間の交際に染みついていないことはない。さらにその例を次の編にも記すこととする。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■こういった悪弊が、儒学にどうしてあるのか。ということに迫りたいと思う。そもそも、孔子孟子が活躍した時代は、春秋戦国時代という戦ばかりの混沌とした時代だった。そんな世の中では、子が親を殺し、家臣が裏切りをするようなことは当たり前のような話であった。だから、名分を正そうと親孝行や君臣の義といったものに随分こだわったわけである。しかし、権威は、その前提条件をしっかりと理解せず、それを利用してこれを常識として無理強いしたわけである。▼だが、間違えてはいけないのは、そういった名分というものがなければ、それまでの世の中は治まらなかったのである。だから、権威が名分を押し付けたという半面と、皆が名分を受け入れることで社会をうまく運営しようとしたという半面があるわけである。現在はいろいろなことが発達して、そういった名分を細かく守らなくても、社会が治まる世の中となった。▼このことについては、もう少し考える余地があるように思う。なぜ、近代革命前の社会に、名分と封建制度が必要だったのか。荀子の正名編もしっかり読む必要がある。

■今日はウポーサタと言って、原始仏教では在家信者も、断食他、そういった戒律を守る日である。私もなんとかかれこれ四ヶ月くらい続けている。うちでは、私の分の食事を用意しなくてよくなるなどの好都合から、この習慣が応援されている。それはおいといて、そのせいで指に力が入らない。