21.学問のすすめ 現代語訳 四編 第八段落・附録

第八段落

 今まで論じてきたことの概要は、今の世の学者が、この国の独立を助け成そうとするにあたって、政府の範囲内で役人として事を行うのと、その範囲を脱して私立する場合との利害得失を述べて、私立の方に大きく味方したものである。

 すべて世の中のことを詳しく考えてみると、利がないことには必ず害があるし、得がないところには必ず失うものがあり、利害得失が相半ばするものはない。私はもとより、何か自分を擁護するために私立を主張しているのではなくて、ただ、普段からの考えを信じてこれを論じただけである。

 もしも、誰かこの世の中に確証を得て私の論説を覆し、明らかに私立の不利を述べるものがあるならば私は喜んでこれに従い、天下の害になるようなことはしないでおこう。

附録

 本論について、二三の問答があったので、この巻末にそれを記しておく。

 一つ目、事をなすのには有力な政府の力に頼るのがよろしいと言う人がいる。

 文明を進めるためには政府の力に頼っているだけではならないのであって、そのことについては既に十分明らかになっている。また、政府に頼って事をなすことは、既に数年実行に移されているけれど、この功績が見えていない。私立することも果たしてその功績が挙がるのかとどうかは簡単に予想することはできなけれど、これが今まで述べたような議論上で明らかに見込みがあるのであるから、これを試してみないというわけにはいかない。仮に試しもせずにこれの成否ばかり疑っているのなら、これは勇者とは言われない。

 二つ目、政府に人材が乏しいのであるから、有用な人間が政府を離れてしまうと政府の仕事に差支えが出ると言う人がいる。

 それは決してそんなことはない。むしろ、今の政府は人が多いことで困っている。事を簡便にして人を減らすならば、その事務は良く整理されて、その人達は世間で他に必要とされていることをすることができ、一挙両得である。ことさらに政府の事務を幅広くし、有用な人に無駄な仕事をやらせているのは、稚拙な下策と言うべきものである。

 三つ目、政府の外に私立の人物が集まると、自ずから政府のようになって、現在の政府の力を落としかねないと言う人がいる。

 これは、小人(つまらない人)の説である。私立の人も政府の人も等しく日本人である。ただ、違った地位で事を行うだけである。実際のところはお互いに助け合って日本全国の便利を実現しようとするのであり、これは敵ではなくて真の益友というべきものである。もしこの私立の人が、法を犯すようなことがあるのならば、これを罰しても良い。少しも恐れる必要などない。

 四つ目、私立しようとする人でも政府を離れてしまうと、他に活路はなくうまくやっていける道などないと言う人がいる。

 こういったことは、士君子の言うべきことではない。既に自ら学者であるとして天下のことを憂えているのならば、その人が何の芸もない無能の人物であることがあるだろうか。芸を用いて貧しくとも生きていくことは難しいことではない。また、役人として公務を司るにしても、私に居て何かを営むにしても、その難易度が違うという道理はない。もしも、役人としての仕事は簡単で、その利益が私立した場合の利益よりも多いというのならば、その利益は働いている実よりも多くのものを得ているということになる。実際の働きに対して多い利益を貪ることは君子のなさないところである。無芸無能であるのに、運良く役人となって、みだりに給料を貪り贅沢をし、戯れに天下のことを議論しているような者は私の友ではない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■「力の平均」の理論を現代で考えてみると、むしろ現代では、政府に対して、人民の方が強いように思われる。つまり、政府が国民の言いなりになり、国民の刺激に晒されすぎ、国民のご機嫌伺いをし過ぎているように思われる。だから、明治維新時とは全く逆の弊害が出ているとも言える。しかし、ここにはトリックが一つある。私は、役人とか政府のとか訳しているのだけど、福沢は、これらを「官」と言っている。つまり、官僚以下「公務員」のことである。恐らくこの明治維新直後くらいには、政治家と官僚や役人の境目が曖昧だったのだと思う。現在では、日本の政府は、「政治家」と「官僚:国家公務員」と「役人:地方公務員または下級の国家公務員」に明確に分かれて成り立っている。そして、矢面に立たされているのは、いつも「政治家」であるのだけど、それ以下、官僚や役人も実は立派な「政府の人」なのである。そうであるのに、「力の平均」の理を受けているのは常に「政治家」ばかりなのであって、これはやはりおかしなことである。これが何故かと考えてみるに、この福沢が述べている「上下固有の気風」が現代でもまだ微かに残っていて、その「士族≒役人・官僚の言うことは聞く」という弊害がこのように残っているという側面があるのではないかと思う。この視点で政府の形態を考えてみると、昔の武士、つまり「士族」は官僚や役人と同じなのであって、日本は明治維新によって、「政治家」という新しい職種を追加しただけとも言える。だから、日本政府で「政治家」の力が弱いことは当然のことなのである。他の国、例えば、イギリスやアメリカでこの問題はどうなのだろうか。それは長いこと住んでみないと分からないかもしれない。なぜなら、この日本のことでさえ、やっと今分かったのだから。これを歴史的に他国と比べてみようと思うとまた大変な研究になりそうだな…。だが、そのようにして、社会を解明してしていかないと、何も解決はしていかないだろう。つまり、論点はこれが日本「固有」のものであるのかどうか、ということである。もしそれが固有のものであるのなら、それは現在政治家が言っているように、「政治主導の行政」を目指していけばいいことである。それは政治家に任せるべきことであって、私の任ではない。だが、いずれにせよ、この固有なものが無い場合どうなるのかということを知らなければ、良い普遍の案は出せないとも言える。難しいところだ。


要約

 今まで論じてきたことの概要は、今の世の学者が、この国の独立を助け成そうとするにあたって、政府の範囲内で役人として事を行うのと、その範囲を脱して私立する場合との利害得失を述べて、私立の方に大きく味方したものである。しかし、これは普段からの自分の考えを信じてこれを論じただけである。私立に害があるとの確証があるのなら、私も喜んでその説に従おう。