誰もかれも批判の先を間違えている

 民主主義なるものは、自身が自身を治めて、自身が自身の独立を保って、自身が自身に尊厳を持ち、そうして社会を形作っているものである。

 思い通りに行かないこと、例えば、商売がうまくいかないことを、安易に政府の責に帰して、そうして彼ばかり批判することは、果たしてこの民主主義の原理に適っていることなのだろうか。

 思い通りに行かないこと、例えば、日本が外国からなめられていることを、安易に政府の責に帰して、そうして彼ばかり批判することは、果たして本当に問題の解決につながることなのだろうか。

 思い通りに行かないこと、例えば、重人とも言える人が搾取や理不尽を行い利益を貪っていることを社会の責に帰して、そうしてそればかり批判することは、果たして正義の徒の行うことなのだろうか。

 常に、最も批判すべきは自分自身であるのではないだろうか。

 確かに人のせいにすることは簡単である。批評家と言われて、テレビに出たり、新聞雑誌に名を連ねている先生方は、今、こぞって民主党を批判しているのだけど、果たして、自民党政権が政権を取ってしばらくした時、日本が依然として変わっていないことを見て、今度は自民党を批判するのではないだろうか。そもそも、その自民党を責め立ててできた政権が現在の民主党政権であったのではないか。

 誰もかれも、みなどこかで思考を止めて、それを当事者の責に帰してしまっているだけではないだろうか。

 本当の問題は常にそこや当事者にないだろう。

 例えば、政治家は私たち自身が選んでいるものであって、その人を選出した責任は自分にある。「いやあいつらは嘘を言っていた」という者もいるかもしれないが、その嘘を見抜けなかった責任は誰にあるのだろうか。7000円出して買った時計と全く同じ時計が、他の店で5000円で売られていた時、訴えてごねる人がいるだろうか、いやきっといないだろう、そして、こう思うのだ「しまった。馬鹿だった。しっかり見て選べば良かった。」と。

 今の社会の問題の大半、いやほとんど全ては、政治家にない。ほとんど全ては、自分自身、国民自身にある。皆は高名にして巧妙な論説に加担して、自分の責任を人に転嫁しているに過ぎない。原発を最も必要としていたのは誰だったのだろうか。高エネルギー生活と工業化を望んだ自分自身なのではないだろうか。3年前の総選挙のとき、自民党でない政権を望んでいたのは誰だったのだろうか。マスコミを批判しながら、自分の意見の後ろ盾を必要としているのは誰なのだろうか。本当の責任の所在が明らかにならない限り、そして、本当の責任の所在が自分の責任を認めない限り、世の中が思い通りになることなど到底ありえないだろう。