7.福沢諭吉 学問のすすめ 現代語訳 二編 端書

二編 端書

 学問という言葉は広くて、無形の学問もあれば、有形の学問もある。心学、神学、理学などは形の無い学問である。天文、地理、究理、化学などは形のある学問である。

 また、学問と言われるものは全て、知識や見聞の領域を広め物事の道理をわきまえ、人たる者の職分(つとめ)を知ることである。知識や見聞を広くしていくためには、人の意見を聞いたり、自分で工夫をこらしたり、または書物を読まないとならない。だから、学問をするにあたっては文字を知る必要がある。だけど、昔から世間の人が思っているように、ただ文字を読むだけで学問をしたと思うならば、それはとんだ勘違いである。

 文字というものは、そもそも学問をするための道具であって、例えば、家を立てるにはトンカチやノコギリが必要であるのと同じだ。トンカチやノコギリは大工仕事に無くてはならないものであるけれども、家の作り方を知らないのならば、この人を大工と言うことはできない。まさしくこのようなわけで、文字を読むことは知っているけれども物事の道理を知らない人は、これを学者と言うべきではない。いわゆる「論語読みの論語知らず」とはこのことを言ったことである。

 日本の古事記などを暗記していても、現在の米の値段をも知らない人は、これを家政の学問に暗い人と言うべきである。古典や歴史のことは奥義に達するほどの人であっても、商売の法を心得て正しい取引のできない人は、これを帳簿の学問には疎い人と言うべきである。数年苦労して多額の資金を使い洋学が成就していても、自分の生活のことはできていないということならば、その人は時勢の学問に疎いと言うべきである。

 こういった人々は単なる文字の問屋と言うべきである。その効能は飯を食う字引きと何の違いがあるだろうか。国のためには無用の長物で、経済を妨げている無用の食客(ただ飯を食らういそうろう)と言っても良い。だから、家政も学問であり、帳簿も学問であり、時勢を知ることも学問であるのだ。どうして必ずしも和漢洋の本を読むことだけを学問だと言うに正当な理由があるだろうか。

 この本の題名は「学問のすすめ」であるけれども、決して字を読むことだけを勧めているわけではない。この本に書いてあることは、西洋のいろいろな本から、文を抜粋して直接訳したり、大意をとって意訳したりして、形のあることについても形のないことについても、一般の人の心得となるような事柄を挙げ、学問の大体の要点を示したものである。

 前回出版したものを初編として、なおその内容を押し広めて今回の二編を記し、次には三篇、四編も出版する予定である。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■最初のたとえは、荀子孟子韓非子にあるたとえのやり方とかなり似ているけれども、ここで、福沢自身が西洋の書物からと言っている以上は、間接的かもしれないがアリストテレスのニコマコス倫理学の記述に起因するものであろうと思われる。ニコマコス倫理学は読みかけなのでちょっといい加減な解説だが、確か、最上の徳(ト・アリストン)に至るための道具が、哲学とそれに伴った徳行であるとあったと思う。これは、学問のすすめと同じように大工のことが例えになっていたと思う。

■ここで、本を読む学問をとてもないがしろにするような書き方がしてあるが、このことについては、当時の状況をしっかりと考える必要があるだろう。なぜなら、当時は、学者というだけで尊敬の的であり、学者と言うだけで偉かったし、その称号があるだけで中身が無くても名士だったのである。この風習と言うかは、私の祖母くらいまでは、続いていたように思う。だから、江戸時代は帳簿や家政と言ったことが学問でないということになっていたと思われる。現在は建築学商学などがあるけれど、当時これらは、賤しい身分の身につける技術でしかなくて、学問というものは士族にだけ許されているような風潮があったのであろうと推測される。そのために福沢は、このように本を読む学問を否定しているのである。それを勘違いしてはならない。

■これを読んで、私のことを心配して下さった方もいらっしゃるかもしれないし、自分が時勢や家政に疎い国にとっての無用の食客かもしれないと思った方もいらっしゃるかもしれない。だが、その心配は無い。上にも述べたように、それは時代が違うからである。かと言って、福沢の言っていることは全ては否定できないのだけども。ここはひとつ、現代風にアレンジし、そのうち「新学問のすすめ」を書いてみようかと思う。


要約

学問をするためには、文字を知る必要があるけれど、文字を知っているだけでは学問をしたということにはならない。本を読んだだけで学問をしたと思っている人のことを「論語読みの論語知らず」と言う。学問において重要なことは、文字を使って物事の道理を知って、それを実際に役立てることにある。

 前回出版したものを初編として、なおその内容を押し広めて今回の二編を記し、次には三篇、四編も出版する予定である。