6.学問のすすめ 現代語訳 初編 第四段落-後半・端書

初編 第四段落-後半

 こういったように、政府の良し悪しは人民の智か不智かにかかっているのだから、現在のわれらが日本でも、この人民あってのこの政治なのである。

 だから、もしも、人民の徳義が今日よりも衰えてなお無学文盲に沈んでしまったのならば、政府の法もさらに厳重となるのであり、または、人民が皆学問を志して物事の道理を知ってより文明となるならば、政府の法はもっと緩やかでおおらかなものとなるだろう。法が厳しいか緩やかであるのかは、ただ人民の徳不徳によって自ずから決まるのである。

 ひどい政治を好んで良い政治を嫌うという人がいるだろうか、自分の国が強く富んでいないことを望む者がいるだろうか、外国からあなどられることに甘んじる人がいるだろうか、これらのことは人たる者の当然の思いである。

 今の世に生まれて、国に報いる心のある者は、必ずしも身を苦しめて思いを焦がすほどの心配をする必要は無い。

 ただ国に報いるために大切なこととは、この人情に基づいてまず自身の行いを正し、厚く学に志して広く多くのことを知り、おのおのの身分に相当する智徳を備えて、政府が良い政治を施しやすく、庶民はその支配を受けても苦しみがないように、互いにこの折り合うところを得て、ともに全国の太平を護ろうとするこの一事であり、今、わたしたちが勧めている学問ももっぱらこの一事を旨としているのである。

初編 端書

 このたび、私たちが故郷の中津に学校を開くことになり、学問の要点を記して以前から付き合いのある同郷の友人たちにこの一冊を書いたのであったが、ある人がこれを見て「これは、中津の人だけに見せるより、広く世間の人にも見てもらった方が良い。その利益はとても大きい。」と言ったので、その勧めによって、慶応義塾の活字版を使ってこれを刷り、出版することとなった。(同志の一覧に供うるなり。)

明治四年十二月

福沢諭吉・小幡篤次郎 記 (明治五年二月出版)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


考察及び感想

■「今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず」この一文は、是非とも現代の愛国者諸兄に玩味していただきたいものである。意味がわからない方は、よく「学問のすすめ」を読んでいただきたい。深くは言わないが、まあ、私も学問を勧めるということです。

■政府の良し悪しは云々のところは考えさせられる。というのも、国民のレベルが高ければその国の政府のレベルも高いということはよくわかることなのだけど、それと法の良し悪し、つまり、税金の過多についてを考慮すると面白い。一方的な理論ではあるけど「多くの金を稼いで、それが税金で取られると文句を言っている人は、実は見当はずれである。というのも、日本で多くの金が稼げるのは日本の治安と政治がそれなりにしっかりしているからに他ならず、このことに文句を言う人は、その恩恵を受けていながら、それを知らない不智な人と言えるからである。」または、「現在生活保護雇用保険などの“無職手当”が受けられるのは、自分達のレベルが高いことによって政府のレベルが高いからである。」一つ目の方は戒め、二つ目の方は矛盾点の提示ということで示しておいた。

■これが出版されたのは明治五年西暦1872年である。これを民主主義先進国イギリスと比較して見よう。マグナカルタ:1215、権利請願:1628、権利章典:1689、ジョンロックの政府二論出版:1690、イングランド銀行設立:1694、アメリカ独立宣言:1776、アダムスミス国富論出版:1776、こうして見てみると、民主主義が確立してから、ほぼ百年の月日が流れてから、やっと日本に民主主義が入ってきたのである。ここに、銀行の設立や経済の成立の年表を入れたのは、民主主義と資本主義の関係を明白にするためである。(このことについて書くと長くなるのでやめておく。)

■コモンセンスを少し読んでみた。学問のすすめと読み比べると、これらが全く逆のやり方で社会を変えようとしたことがよくわかる。コモンセンスは、例えば、アスファルトの下から芽を出そうとするタケノコに対して、アスファルトを割るきっかけを与えているように思う。逆に、学問のすすめは、耕された畑にまかれている種に、肥料と水をやるようなものと思う。つまり、コモンセンスは、既にある独立の気風を社会に表面化するため書かれたものであり、学問のすすめは、独立のお膳立てが整った社会でこの独立の気風をうまく育てようとしたものである。


要約

明治となって、生まれつきの身分も平等となり、こうして自由の身となったからには、自分の身分は自分の才徳に見合ったものとなるわけである。だから、文字を習って物事の道理を知って、その身分に見合った相応の才徳というものを身につけなければならない。

また、学問をする理由は、身分に見合うためだけではない。もしも、国民が学問をしないで無学文盲であるのならば、人が犬や猫をしつけるように、政府もその愚民をしつけなければならなくなる。これは、西洋のことわざの「愚民の上に暴政府あり」とあるのと同じである。だから、暴政府を作らないためにも、国民は学問をしなければならない。

こうして国民が学問をして、国民の学識が高まれば、政府も仕事がしやすくなって、国民は苦しめられず、政府の仕事は滞らず、お互いに居り合うところを得て、太平を護ることができるのである。今、われわれが勧めている学問というものも、このことを旨としているのである。