13.学問のすすめ 三編 第二段落

第二段落

一身独立して一国独立すること

 前に述べたように、国と国とは同等であるのだけど、国中の人民に独立の気力がないときは一国の権義を思う存分発揮することはできない。その次第は次の三カ条である。

第一条 独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。

 独立とは、自分で自分の身を支配し、他によりすがる心のないことを言う。自分で物事の理や是非を弁別して処置を誤ることのないものは、他人の智恵に頼らない独立である。自分の心や体を労してそのことで自分の生計を立てているものは、他人の財に頼らない独立である。

 人々がこの独立の心もなくただ他人の力によりすがろうとだけするのならば、全国の人はよりすがる人ばかりになってしまって、これを引き受ける人はいなくなってしまう。これを例えると、目の不自由な人の行列に付き添いの人がいないようなものである。とても不都合なことではないか。

 ある人は、「民はこれに由(よ)らしむべしこれを知らしむべからず」と言った。つまり、世の中には目の見開いている人が千人いれば、目の見開いていない人も千人いるのであり、智者は上に居て庶民を支配して、これを従わせればいいのだと。この議論は、孔子様の流儀であるのだけど、実は大きく間違っている。一国中に人を支配するほどの才徳を備えた人は千人に一人くらいしかいないだろう。もしも、人口百万人の国があったとすると、ここには千人しか智者がいないくて残りの九十九万人余りの人は無智の小民であるということになる。

 この千人の智者の才徳でこの小民を支配し、あるいは子のように愛し、あるいは羊のように養い、あるいはおどしたりなでたりして、恩も威厳もともに行われ、その向かうところを示すことがあるのならば、小民も知らず知らずのうちにお上の命令に従い、盗賊や人殺しのような事件はなく、国内が安穏に治まるということになる。しかし、そもそもこの国の人民が、主と客の二つに分かれて、千人の智者が主(あるじ)となって、いいように国を支配しているのなら、残りの人は皆が皆何も知らないお客様ということになる。

 既にお客様であるのなら心配するようなことも少なく、ただ主人を頼りにして自分の身に引き受けることなどはないのだから、国のことを心配しなくなるのも主人ほどでなくなることは必然、実に水臭い有様になってしまう。

 こういったことは、国内のことであるならばそれほどのことではないのだけど、いったん外国との戦争ということになるとその不都合であることは簡単に想像できる。無智無力の小民は、さすがに武器を逆さまに持ってしまうということはないだろうけど、自分達はお客様であるから「命まで捨てるのはやりすぎだ」と言って逃げる者は多いに決まっている。こんな状態では、一応国の人口は百万人であるのだけど、いざ国を守るということになったらそれをする人の数はとても少なくて、こんなことでは、とてもではないけれど一国の独立を保つことなどできない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■「民はこれに由(よ)らしむべしこれを知らしむべからず」は論語泰伯第八にある。この言葉も段階的にいろいろと翻訳することができる。ここで福沢は、「民とは、自分達に頼らせて、そのことは知らせないようにする」という一番浅い読解の仕方でこの言葉を出している。しかし、この「これ」の部分に何を入れるかによっては、この言葉の意味もだいぶ変わってくる。ここに道理を入れると「民とは道理に従わせて、道理というものを直接は知らせないようにする。」となる。なんか老子にありそうである。ではここに、「自分が独立すること」を入れてみよう、すると、「民には、自分で独立するように仕向けて、そのように仕向けられているということは知らせないようにする」となる。あらら、学問のすすめで、福沢が言っていること自体、または福沢がしていること自体を意味するようになってしまう。このようなことを書いたのは、儒学を擁護したのと、もうひとつは言葉の深さについて言いたかったからである。つまり、論語とか聖書とかその他、一級とされる書物は、このように、その人の段階に応じて、いろいろ解釈できるようになっている。そして、だからこそ、何回も読む価値がある。

■このあたりこそ、私の研究したいと思っていた部分である。つまり、封建社会と民主主義社会の境目、それの根本的違いのようなものがこの辺りにあるように感じるのである。これが何か分かれば、現代が何であるのかがとても明瞭に見えてくると感じている。どの国の歴史も、少ない例外を除いては、ほとんどが封建社会を形成している。そして、封建社会儒学と関わりが深いことは言うまでもない。そして、現代の社会とその前の社会での一番大きな社会の違いは、この封建か民主独立かなのである。だから、この違いがわかれば、恐らく現代というものが相当に分かるような気がしているのだ。これは今までの研究で、ひとつ、衣食住の安定があるかどうかの違いであると分かっている。だが、私は、もっと重要な違いがあるような気がしているのだ。これが分かると、とにかく何かが分かってくる気がする。


要約

一身独立して一国独立すること

 前に述べたように、国と国とは同等であるのだけど、国中の人民に独立の気力がないときは一国の権義を思う存分発揮することはできない。その次第は次の三カ条である。

第一条 独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。

 独立とは、自分だけの智慮や財産を頼んで、他によりすがる気持ちのないことである。だから、もし国の人が智者の指し示す方向にただ従っているだけだったとしたら、それは独立していることにはならない。そして、この智者に従うということを突き詰めてみれば、国の主人は智者であって国は智者が運営し、その他の人民はこの運営されている国によりすがり、そこをたまたま宿としているだけの客ということになる。こういったことであると、宿屋の客が宿屋を敵から守るためには命をかけないように、人民は国をまもるためにも命をかけないということになってしまう。