5.学問のすすめ 現代語訳 初編 第四段落-前半

初編 第四段落-前半

 今までも述べた通り、人の一身も一国も、天の道理に基づいて不羈自由(不羈:しばりつけられないこと)であるからには、もしも、この一国の自由を妨げようとするものがあるならば世界万国を敵としても恐れるに足らず、この一身の自由を妨げようとする者があるならば政府の役人も恐れる必要は無い。

 ましてや、このごろは市民同等の基本もできているのだから、とにかく安心して、ただ天の理に従って存分に事業をするべきである。そうとは言うものの、おおよそ人にはそれぞれの身分というものがあり、その身分相応の才徳:能力を備えないというわけにはいかない。そして、才徳を身につけようと思うのならば物事の道理を知らないというわけにはいかない。物事の道理を知ろうとするならば文字を読めなければならない。これこそ学問が急務である理由である。

 昨今のあり様を見ていると、農工商の三民はその身分が明治維新の前から百倍となり、やがては士族と肩を並べるほどの勢いに至っている。今日でも、三民のうちにそれにふさわしい人がいるのならば、政府の上役として採用されるといった道も既に開けている。そうであるからこそ、自分の身分のことをしっかりと考えて、自分の身分は重いと自覚し、卑劣なことをしないようにしなければならない。

 そもそも、この世の中で無智文盲の民ほど哀れで嫌なものはない。智恵のないことの極みは恥を知らないということで、自分の無智のせいで貧乏になり飢えや寒さが迫ってくると、自分の(無智という)罪を考えないで、みだりに金もちの人を怨み、これが甚だしくなると徒党を組んで強訴一揆などと暴力に訴えることがある。これを恥を知っていると言えようか、法を知っていると言えようか。

 天下の法に頼ってその身の安全を保ち家をやっていながなら、その頼るところだけ頼って、自分の欲のためにはこれを破るとは、なんと前代未聞の不都合な次第であろうか。

 あるいは、たまたま身元も確かでそれなりの身代がある者でも、お金を集めて貯めることはよくするのに子孫に教えることをしない場合、その教えられていない子孫が愚かであろうことはほとんど当たり前の話である。そうして、この子孫が遂に遊び耽って放蕩をして、先祖の財産を一朝の煙にするといった話は決して少なくは無い。

 政府としても、このような愚民を支配するために、道理で説得するといったようなことはとてもできず、ただ威光を張って恐れ入らすしかない。西洋のことわざの「愚民の上には暴政府あり」というのはまさにこのことを言ったことである。これは政府が横暴なのではなくて、愚民が自ら招いている災いである。しかし、愚民の上に暴政府があるのならば、良民の上には良い政府があるというものである。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536

感想及び考察

■ここに、徒党を組んで云々とあるけれど、私はデモというものも一種の暴力であると思う。原発のデモもそう言った意味で批判する。そもそも、暴力というものは、力を用いて自分の意見を押し通すことに他ならない。だから、デモも所詮は「大人数での力」を使って何か自分の意見を押し通そうとすることのように思う。最上の道は常に対話と説得である。相手がこれに応じようとしないとき、または相手は応じているのに応じていないと勘違いした時に、暴力が発生する。だから、デモも一種の暴力であると私は考えている。逆に言えば、説得の延長線上に暴力があるとも言える。そうすると、「暴力」の手前の「説得」の段階に止まることが「礼」であると言える。

■ここでは事業と訳しておいたが、これは原文では「事」である。行と事の違いが、荀子の正名編に記されているので少し紹介したい。「利に当てて為すはこれを事と謂い、義に当てて為すはこれを行と謂う」この荀子の定義は現代でもいきいきと残っている。私たちは会社で行うことのことを「事業」と言い、人の普段のありさまのことを「行為や行動」と言い、学校や公で行われることを「行事」と言う。義や利の言葉に通じている人なら、これの意味がよくわかると思う。荀子の正名編にはこの他にも多く示唆のあることが書かれている。論語にも、「あなたは総理大臣となったらまず何をしますか?」という質問に対して、孔子が「先ずその名を正す」と言う場面がある。荀子がこれに着想を得て正名編を顕したことは想像に易いが、これのことがつまびらかに正名編で論証されていることはとても興味深い。