政経分離

 という言葉を思いついた。

 だが、私は、その言葉を閃くと同時に、どこまでが政治でどこまでが経済なのか、という線引きの難しさに気がついた。

 この言葉を思いついたのは、ipod touchでiTunesUの「世界経済危機とアメリカ帝国の崩壊」という京都大学の講演会ビデオの冒頭を聞いて、はたと不思議に思ったからだ。

 この講演会は、エマニュエル・ドットと佐伯啓思という人の対談という形になっている。両人とも私は知らない人だったのだけど、どうも、御両人とも私と同じように、現在の経済自体の限界を感じているようだ。特に佐伯氏に関しては、経済に対する見解がほとんどというか、全く私と同じとすら思える。佐伯氏と私の違いは、当たり前と言えば当たり前なのだけど、佐伯氏の方が私より些事に詳しいことだ。大まかな考え方は同じなのだけど、経済・金融学的観点、政治学的観点が私より格段に深い。その半面、考えが、雄大なる歴史の流れを忘れがちであること、つまり、現在のこまごました経緯に偏り過ぎていると私には感じられるところ、あと、その新しい未来、新しい価値観を探す方ではなく、現在の問題を潰す方に重きを置いているところが、私との違いとして挙げられる。もちろん、私は、私の見解の方が優れていると思っている。そうでなかったら、私は、すぐにこの研究を投げ出すだろう。私の見解が、最も適切であると言う理由が故に、私は、この分不相応な偉大なる研究をしているのだし、しなければならないのだ。

 それで、なぜ、政経分離なのか?というと、佐伯氏は、「では、私は政治学的観点から、お話をしたいと思います。」と断っているにもかかわらず、その内容は私からすると「経済の話」としか思えなかったからだ。

 そういった意味で、現在の政治は、経済に食われている。と思ったのだ。政治とは、そもそも何なのか。経済を御するのが政治であるべきであり、政治とは、社会を円滑に運営するもので有るべきである。確かに、経済が社会の多くに大きな影響を与える以上、それが社会を円滑にする政治と密接な関係にあることはわかる。だが、しかし、政治とは、その程度のものなのか。政治とはその程度のものではないはずである。今、荀子を読んでいるが、荀子孔子の行おうとしたことが政治であるべきであるのだ。つまり、政治とは「社会を円滑に運営するもの」にほかならぬが、経済と言う猛獣をもっと上の次元から制するものであるべきなのだ。今の政治の欠点は、ひとつは、政治「まつりごとをおさめる」という言葉の意味を過小評価していることかもしれない。政治という言葉には、もっと偉大なる力と、もっと偉大なる意味が宿るべきなのである。