ソークラテースの思い出を読んでいて2

 もう、この本は読み終わってしまった。

 だが、二回目に突入し始めた。

 ソクラテスが、いかにして賢明に成り得たのか、また、自分も何か質問されたときに、賢明な答えができるようにその手本として、この本は何度も読もうと思う。いや実に、何回も読む価値のある本だと思う。

 ソクラテスの生きていたころの時代背景や、ソクラテスの思想それ自体、ソクラテスの哲学と儒学との比較など、研究課題というか、考究課題はとても多い。多く気がついたこともある。

 ソクラテスが現代に舞い降りたら、まず、この「解明されたこと」の多さに驚き、また、特に物理学については、すぐにその専門家のところへ話を聞きにいこうとするだろうとも思う。

 ソクラテスの神々についての見解を読んだが、内容が荀子の「天論」序盤と全く一緒の部分がありとても興味深かった。他にも、儒学との共通点は多い。だが、論法というか、考え方において、やはり西洋哲学的な、文明的、明文的なことを感じる。この理由の一つとしては、漢字(象形文字・象意文字)の曖昧さ・多義性がある。

 例えば、「道」や「天」や「礼」や「仁」という言葉は、その言葉に暗喩や意味を多く押し込めて、これを奥深くし、創造と想像の余地を残すことができる半面、意味を曖昧にしてしまうという欠点もある。だが、表音文字を用いていたギリシアでは、こういったことはあまりできないし、そういった発想は少ないのである。例えば、「それは礼のことだ」と私が言いたくなる場面は数多くあるが、そういったものに対する、そういった簡潔な概念を含んだ言葉というものがないのである。

 ただ、このソークラテースの思い出の中でも、「神々」「精霊(ダイモニオン・ダイモーン)」という言葉には深い含意が押し込められているように思われた。これは原典に当たってみないと分からないと思ったのは、「法」という言葉だった。この言葉にも、単なる「法律」や「国法」といったものを越えたものが内蔵されているときもあるし、逆にそうでないと思われるときもある。