剛与し易く柔与し難し

 以前、言志四録を読んでいたとき、「柔者最も恐るべし」といったようなことが書かれていて、なるほどぉと思った。

 ではまず、剛柔とは一体何なのかというところから始めよう。

 剛柔は、しばしば陰陽と対比させられるが、確かに似ていると思う。だが、全く同じものとは言えない。なぜなら、剛柔と言うのは性質caracterのことで、陰陽とは本質qualityのことであるからだ。

 では、性質と本質の違いは何か。

 性質とは、何らか対象や設定範囲があって、それらの基準から決定されるもののことである。例えば、人間社会に適応する人のことを性質が良いと一般的に言う。または、温度という基準があるとき、その物は、こういった性質を持つ。と言う。これに対して、本質というのは、そのもの自体が持っている、または内蔵しているもののことである。だから、陰陽は、剛柔よりも一つ上の段階にあるもので、陰が柔と陽が剛と必ず一致するわけではない。

 例えば、水は、高圧で噴射するとダイヤモンドカッターよりも鋭い刃となるらしい。この場合において、水はその切る対象のモノに対しては剛物であるのだが、この場合の水の意味合いは陰物である。次に、加湿器で部屋を加湿した場合、このとき、水は水蒸気となるのだけど、これは人間に対して柔物となるが、水の持つ本質として、やはり陰物である。(陰陽の峻別は難しいのでこの程度に留めておく、陰陽と言うのは、相対的なものでもあるので、水が陽物として考えられる場合もあるだろう。厳密に言えば、陰陽を考えるとき相対範囲が広くなるだけ、つまり、一般的な性質の定義よりも範囲が広い性質が本質であるとも言える。)

 こういった具合に、剛柔というものは、相手がある場合に、その対象や範囲、基準の中でどうなのかということを言った言葉なのである。

 これで、剛柔がどういったものか分かってもらえたとして、「剛与し易く柔与し難し」(私はこれを“爪牙の理”と名付けたのだが)という言葉の意味に入って行きたいと思う。

 例えば、剛柔に与するとはこういうことである。膝までしか深さのないような広い水溜りを想定していただきたい。何らかの理由で、ここを歩くことになったとする。このときに、水面から飛び出ている部分が「剛」であり、水面の下で見えないものが「柔」である。

 山のようなものが水面から出っぱていてそれが行く手をふさいでいる場合、これは剛物によって邪魔されているということになる。逆に、水面の下で実は穴があったり、そこだけ泥沼で足がズブズブとはまって行ってしまう場合、これは柔物によって邪魔されているということになる。どちらが早めに対処し易いか。

 剛というものは、人の気持ちが出っ張った凸なものであり、発見するのが容易で、その対処もし易い。例えるなら、虎が爪や牙をむいているような状態である。もしあらかじめ、その虎をどうかすることができるなら、爪と牙を取り除いておけばいいし、その武器となっている部分、つまり爪牙のみへの対処を考えればいいわけである。しかし、相手が柔で押せば引いてしまう場合、のれんを押してもひらりとかわすだけでなんともならない場合、この対処法は難しい。こちらからは、ほとんどなにも対処できないということになる。しかし、その柔法を用いている人は、何もデメリットが無いというわけではない。なぜなら、柔であるということは、待ちの状態でもあるからだ。柔法の間はものごとがほとんど進展しないと言える。この考察からも、剛柔はうまく使い分けるのが良いということになる。