陰陽思想について

忘れないうちに記しておこう。

陰陽思想(あくまで私の定義する)とは、陰と陽を同時に肯定することであった。

どういったことかと言うと、両極を同時に肯定するということだ。

多くの人が、ものごとをデジタルに(無機質な数字として)処理をして、ステレオタイプ(お決まりの型にはめること)になりがちである。例えば、草食系とか肉食系とか、文系人間とか理系人間とか、性善説とか性悪説とか、これは確かに分かりやすい。

だけど、世の中は、もっと流動的で混沌としたアナログ空間なのである。

ベジタリアン(草食)の肉食男子とか、アインシュタイン(理系)の好きな文系人間とか、性善説を肯定している性悪説論者(荀子のこと)とか。

こういった混沌としたものこそが現実であり、はっきり白黒つけるようなことはむしろ妄想なのである。

だが、これは言い過ぎというものである。単純なことなら白黒付けることができるし、要素が多くあって複雑な事がらについても、よほどの知恵者であれば白黒をつけることができる。しかし、知恵者が白黒をつけられるのは、まさに白と黒を知っているからなのである。

そして、こういったことを受け入れる思想こそが、陰陽思想である。なぜなら、陰陽思想とは、陰と陽、白と黒を同時に肯定することから始まるのだから。つまり、陰陽思想について通じている人は、陰と陽を峻別することができる人でなくて、むしろ、陰と陽を同時に肯定することができる人であるはずなのだ。

こうして、陰と陽を同時に受け入れて認識すれば、陰と陽の両極について知ろうとする姿勢が生まれ、陰と陽の両極について知ろうとする姿勢が生まれれば陰と陽を知ることができ、陰と陽を知ることができれば善に偏らず悪に偏らず、善に偏らず悪に偏らないのなら智恵は尽くされ、智恵が尽くされれば現実に役立てることができる。つまり、現実に役立てることの始めは、両極を同時に受け入れて認識することに他ならないのである。(最後は荀子の論駁不可能論法の真似)