福沢諭吉論法と荀子論法

荀子の現代語訳をやろうと思ったのだけど、次の章はとても長いので、明日やることにした。その代わりに、私が体得した論法をまとめておきたい。

福沢諭吉論法

福沢諭吉論法なるものは、これにあらずして、それにあらずして、例えるならば水の流れるが如くなれども、山と沢が入り乱れるが如くにして、その水源は意志なるものなれども、これを実現せるはその流れる水の多きこと、多くの事を知り多くの書籍を読みたる故にして、その水の集まりて大海に出れば、どこから来たのか、そこから来たのか、水の出所もその大海の要も分からぬようであれども、不思議なるかな、水源も大海も高き空から全てを見たるがごとくにして、いとも易くそれらを知るべきなり。

(修飾が多いために文が長く、豊かな語彙に富んでいて、リズムがあり、一見するとデタラメであるのに、その要点は分かるということ、しかも途中で文脈をねじるというおまけ付き)

荀子論駁不可能論法

凡そ事は、因あれば果あり、果あれば因あり。これを総じて因果と言う。土を積めば山となり、水の重なれば淵となり、因果の積み重なれば天の高きをも明らかにすべくして地の厚きをも察するべきなり。故に、一因を積んで一果を重ね、二因を積んで二果を重ね、是の如くして百因を積んで百果を重ねれば、天の高きも明らかに地の厚きも察すべきなり。故に、一因を積んで一果を重ねること正しければ、広なる地に大なる礎を築くがごとくにして、広なる地に大なる礎を築けば太き柱を建つるに障りなく、太き柱を建つるに障りなければ、ここに成せしもの固く強くして、これの安きこと盤石にしてその永きことは星辰の如し。伝に「一因を積んで一果を重ねること正しければ、世は安泰す」と曰えるはこれを謂うなり。

(普通の人なら飛ばしてしまうような、中間の因果関係も明らかにすることで、論理を明確なものとして、ほとんど論駁不可能にする論法。語の定義もあらかじめ明らかにすることで場外乱闘を防いでいる。二つ例えを持ってきて、最後に言いたいことを明らかにするなど、納得するより他ないという感じ)

やっぱり、文章にはパーソナリティーが出るのだろうなと思う。ただ、荀子を読んでいると、あれ、これ学問のすすめにもあったよな、という言葉使いが結構あるし、対比や論法の組み方で似ているなと思うときがある。韓非子の真似とかもできたときがあったのだけど、忘れてしまった。

対話法については、特徴はそれなりに抑えているつもりだけど、対話法で対話法を説明しようとすると、ものすごく長くなりそうなので要点だけ書こうと思う。

(対話というだけあって、話が急に飛ぶことがある。例えば、A、B、Cと話が進んできて、いきなりXが来るみたいな感じである。しかし、実際の会話はこんなものであるから、対話法だとこれが不自然に感じられない。だから、このことを利用して、一見関係ない話Xを挿入することで、A、B、Cと来た話を、A、B、C、X、A’、B’、C’そして結論Dに持って行くという感じ。これが対話法の利点であると言えるだろう。しかし、全く違う話に進む場合もあって、これが弱点であるとも言える)

専門家でないので、適当な意見ではある。