110.荀子 現代語訳 君道第十二 六章

六章

 至道の大形。

 礼を尊重して法にそれをしっかり反映させることができれば、国には一定の変わらない常というものが生まれることになり、
 賢者を尊んで能力者を使うならば、民衆は方向性や一定の範囲というような方というものを知ることとなり、
 多くの論説を集めて公平にそれを慮るならば、民衆は疑うことがなくなり、
 勤めている人を賞して怠けている人を罰するならば、民衆は怠ることがなくなり、
 兼ねて全てを聴くことが平らかに明らかならば、天下もここに帰することとなる。

 こうしてから、役割とその範囲を明らかにして、事業を順序付け、才能がある人を抜擢して能力のある人に役目を与えて、治めて筋道がないということがないならば、公の道が達せられて私の門が塞がり、公の義が明らかとなって私事がなくなる。

 このようになれば、徳の厚い人が進んで口先だけの人が止まり、貪欲な人が退いて廉潔節制の人が起こることになる。書経に「時を先取りする人は殺して許してはならないし、時に及ばない人も殺して許してはならない」とある。

 人はそのときの自分の仕事について、よく習って固くこれを守らないとならない。

 人が百もある別の仕事をするのは、例えるなら、耳目鼻口で感じることが全て別々であるのと同じようなことである。だから、民衆は職業が分かれれば怠けなくなり、序列が定まれば秩序が乱れることがなく、兼ねて全て聴くことが平らかに明らかとなれば百の仕事が停滞することもなくなる。

 このようになるのならば、臣下から役人から庶民に至るまでが、自分を修正してそれから進んで正しい方に安んずるようになり、誠の能力が備わったら進んで自分の役目を受けるようになり、百姓も習俗を変化させて小人も心を入れ替えて、ずるかったり怪しいような輩も正直に帰るようになる。こういったことを政教の極みと言う。

 それ故に、天子は、目をこらして視なくても見ることができ、耳をこらして聴かなくても聞くことができ、思慮をめぐらすまでもなく知ることができ、動くことなく功績が挙がって、岩のようにどっしりと独り鎮座していながら、天下がこの天子に従うことは、さも一つの体のようになり、四肢が心に従うかのようである。こういったことを大形というのだ。詩経 大雅・抑篇に「ほがらかで 恭しさある あの人は これこそ徳の 基礎というもの」とあるのは、このことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■今日は、昨日の夜に寝付けなくて、とても疲れた状態で現代語訳をしたのだけど、荀子の言いたい因果関係の意味がほとんど分からなかった…、明日にでももう一度推敲してみようか。

■天子を人の集合体というものにすると、現在の社会体制とも合致すると思う。というか、この状態(疲れなどによって理性が働かなくて感性がさらけ出したような状態)だと、むしろ、荀子は、今まで、「天子」というのをある一人の人物ということでなくて、「人の集合体・人の意志の塊」として考えているのではないかと思えてきた。「天下」もこれに準じて「人の集合体、人の意志の塊が動かしているもの」といったようなものを想定しているのかもしれない。▼こうして考えてみるに、日本の天皇制(つまり象徴という言葉で端的に表されるもの)も、こういった考え方なのではないか。「天子」は本当は見えないものであるから、それを象徴するのが、天皇や王であるということである。中華システムと言われるシステムも、明らかに荀子の王道と同じであるから、荀子の理論は、かなり高次元な部分で、理論として何者かによって設置され、社会で大活躍し、使われてきているのかもしれない。