理論型と直感型

 いろいろな本とかを見ていると、人を理論型と直感型にわけるような傾向がある。そして、あたかもこの二つの型が共存できないかのような印象を受けることが多い。日本で俗っぽく言うと、文系人間、理系人間とかになるかな。

 だが、私の考えでは、これらは、陰と陽、コインの裏と表、天に対する地、物質に対する気のようなものと考えている。つまり、両者は共存していて不可分であり、自分を理論型と思っている人は、そのコインの表だけを、自分を直感型と思っている人は、そのコインの裏だけを見ているに過ぎないと考えているということだ。

 例えば、勘を直感側から説明すると、不可思議なものであり、意味不明なものであり、理屈がないものであり、霊的なものである。しかし、理論側から説明すると、極めて合理的なものであり、説明可能なものであり、経験の集積であり、理知的なものである。

 例えば、この私の勘理論は、直感を契機に展開されている。「勘が理論的なものではないか」ということは直感による閃きで起こっている。ここで、コインの裏しか見ない人は、「勘は理論的なものだ」と納得してしまうわけである。

 だが、コインの裏を見ると、表側も見たくなってしまう私は、まず、こう考える。「なぜ、自分は勘を理論的なものと思ったのだろう」と、そして、直感による閃きがある。「今までの経験からすると、偶然は何度も起こらない。だから、勘がある程度当たる以上は、そこになんらかの理屈があるからだろうと思ったからだ」と。

 すると次に、またこのコインの裏側を見たくなる。「どんな理屈があるのか」と考える。「経験の集積で勘が理論的なものかもしれないと思いついたのだから、経験と勘には何か因果関係があるのだろう。そう考えてみると、経験の集積が勘と言えるではないか」と閃くのである。

 そして、またコインの表側を見ようとする。「経験の集積と勘の間にある因果関係はどんなものだろう」と考える。「経験を目的に集約すると勘になるのだ。経験が、目的と言う触媒と接触し、経験同士が化学反応を起こすと、経験の集約が勘となって表面に出るのだ」と閃くのである。

 このように、コインの裏と表を繰り返すことが理論と直感の相互作用であり、直感が契機となって理論を促す。そして、その理論が新たな直感を呼び起こすのである。直感がコインを表に反して、理論がそれを観察する。理論がそのコインの表側を観察し終わると、また直感がコインを裏に反す。このような繰り返しが、直感と理論の不可分性であり、相互作用と言えよう。

 そうすると、この相互作用自体が理論でないの?と思われるかもしれないけど、なんでもそうだけど、人に何かを説明しようとすると理論になる。直感でこれを表すことも可能かもしれないけど、それこそテレパシーとかの世界になってしまう。かろうじて、絵や音楽でこのことを直感的に伝えることはできるかもしれないけど、私はその表現方法を持っていない。付記すると、この相互作用に熟達している人は、占いみたいなことに長けている可能性が高い。

 ちなみにこれは、孫子の奇正の原理に似ている。「凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ。故に善く奇を出だす者は、窮まりなきこと天地の如く、尽きざること江河の如し。(中略)戦勢は奇正に過ぎざるも、奇正の変は勝げて窮むべからざるなり。奇正の環りて相生ずることは、環の端なきがごとし。誰か能くこれを極めんや。」(孫子 勢篇)

空を理解する方法について
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130124/1359029592

孫子の深奥 奇正勢節虚実
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120111/1326291418

関連 文明と文化の違いについて
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130512/1368363023

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