原子力の問題について

 原子力の問題は非常に難しい問題だと思う。

言志後録79より

政を為すに須らく知るべきもの五件あり。曰く軽重、曰く時勢、曰く寛厚、曰く鎮定、曰く寧耐、是なり。(以下略)

政治において重要なことは、

軽重:その事の重要性はどの程度のことで、どの程度の力を費やすべきことなのか
時勢:その事が時代に合っているのかどうか
寛厚:大目に見ることがあるが、その判断は、粗略・大簡(いい加減)に陥っていないこと
鎮定:感情に完全に流れて、時勢や理知的判断を無視してしまっていることを抑えること
寧耐:丁寧であることを主として、拙速の念や一時の功利の念に耐えること

であるとするのである。これらを判断するのが政治であり、また、これらを正しく適切に遂行することが良い政治と言えよう。この言志録の言葉を念頭に置いた上で、原発についてのことを考慮する。


 まずは、原発反対派になってみる。

 原発を推進すると言うことは、処理できない放射性廃棄物を生み出し続けることであり、また、放射性物質を拡散している状態から、集積された状態に移行することを続けることである。これは、人や他の生物にとって、甚だ有害なことである。なぜなら、集積された放射性物質は、生物の死を早め、またその物質が集積されたところでは、生物が活動できなくなるからである。その場所は、数百年という単位で死地となり、生物の生産活動たる地という富を消失させてしまう。

 また、3.11の災害が如何に想定外であったとはいえ、事実として、人間はこの英知の結集たるエネルギー生産施設を適切に管理できていなかったのである。それが故に事故が起きた。管理できないものを使用し、また、その管理できないものに頼ることは、正しい営みとは言えない。自然とは常に想定外であるから、原発は使用すべきでない。いつまた大惨事が起こるとも限らない。


 では、原発推進派になってみる。

 原発に反対すると言うことは、エネルギーを否定することである。現在の経済活動は、エネルギー、その中でも特に電気エネルギーに大きく依存している。その中で、そのエネルギーの大規模発生源である原発を否定するということは、経済活動の否定を意味している。経済活動とは、生活の基盤である。その生活の基盤を否定すると言うことは、自分の現在の生活を否定していることに他ならない、今、このような便利な生活ができているのは原発があるからである。

 また、原子力発電という分野は未だ若く、開発の余地が多くある。例えば、核融合技術が使えるようになれば、放射性廃棄物の出ないクリーンかつ高効率のエネルギー供給源ができることになる。だが、もしも、今、原子力をすべて使わないならば、この技術は使用されることは無いだろう。なぜなら、原子力を使い続けるから、そのことに関する技術が発達するからである。日本の原子力に関する技術は非常に高い。それは、原発が現在動いていたからであり、もしも、原発が動かないなら、この技術は技術者とともに海外に流出するばかりである。経済活動も落ち込み、日本と言う国の衰退は著しいものになるだろう。


 では、最後に傍観者になってみる。

 原発を使うか使わないか、日本が衰退するかどうかは、天の決めることだ。人類が高エネルギー生活を望むなら、今後原発は欠かせないだろう。逆に、高エネルギー生活とは別の道を模索するならば、今後原子力といったものは無くなっていくだろう。今がそのどちらの道を選ぶのかの一つの起点であることは確かだろうが、どちらが良いということは判断できない。

 ただひとつ間違いなく言えることは、何事にも漸の理というものがあるということだけだ。漸の理とは、何事も急には変わらないという意味である。だから、急にパタッと原子力が無くなることはないだろうし、逆にいきなり新しい技術が生まれるということもない。人類が、今日の明日ので高エネルギー生活から脱却することはできないし、倍のエネルギーを使うようになることもできない。ただ、自然の理と已むえざるの勢のみが、その選択を後押ししていく。だから、そもそも、どちらの道を選ぶのかと、窮迫に決定すること自体が、不自然であるのだ。


 原発に関する意見を極論してまとめるとこんな感じと思う。個人的判断と政治的判断と普遍的判断は違う。それぞれの判断過程が示す最も正しい結論はすべて違うのであるが、その違った結論はすべて正しい。

 政治的判断の正しさを促すために、最初に言志四録の抜粋を添えた。中道を得ることが政治ならば、今回の決定は無難と言えるものであったのではないか。