荀子を読んでいて7

 遂に荀子の性悪篇を読んだ。いつものことながら、荀子の賢さに驚いてしまった。

「人の性は悪にしてその善なる者は偽なり」

 このフレーズが、この性悪篇に何度も出てくる。この言い切り具合と言い、簡潔さと言い、もう申し分ない。ちなみに、「偽」は「いつわり」という意味でなくて、「人の為す」という意味である。

 小学校か中学校か忘れたけど、とにかく、そのころの教科書に、吉本ばななが、「人は偽善者にならないといけない」みたいな内容のことを書いたものが掲載されていた。今、思えば、それはこの性悪篇に基づいて書いていたんだなぁと思った。

 正直なところ、荀子性悪説はかなり牽強付会、強引な理論のところがある。だけど、それがなぜか、また、荀子がどうして性悪説を説いたのか分かった。やっぱり荀子は驚くべきほどの賢者だった。その荀子の考えに気がつくと同時に、「ああ、荀子の元で学ぶことができたらなぁ」と思った。

 どういうことかと言うと、まず、当時、孟子性善説が幅を利かしていたと思われる。これは、荀子の性悪篇に「孟子は人の学ぶはその性の善なりといえるも、これ然らず」とあることからも分かる。また、この性悪篇は、最初荀子が自分の性悪説について説明するところから始まり、何人かの人が性善説性悪説について、荀子に質問をするような形式として書かれていることからも分かる。

 このような状況下で、当時、孟子性善説を逆手にとって、「自分の性も人の性も善だから、何もする必要はない」みたいな理論を立てる人が多くいたのだろう。これはもちろん、孟子の真意にも反しているし、道からも外れている。このような世情を矯正するために発せられたのが、荀子性悪説であり、そのような迷いに陥る人の目を覚ますために書かれたのが、荀子の性悪篇であるのだ。

 これは、荀子孟子のことを「孟子」としていることからも分かる。孟子を批判する文はここ以外にもあるのだけど、そこでは孟子のことは「孟カ」(本名の呼び捨て)と表現されている。どういうことかというと、孟子の「子」は、先生という意味である。この性悪篇において、荀子孟子に敬意を払っているのだ。また、対話形式であることからも、当時の実情や、荀子が本当に言いたいことを伝えようという姿勢がわかる。

 敢えて言うと、私は荀子を論駁することもできる。「荀子曰く、人の性は悪なりと、これ然らず。我に惻隠の心あり、彼に惻隠の心あり。赤子の将に井に落ちんとする。仁者これを助けんとすることそれ然り。また幼子のその犬猫を助けんとするを我かつて見し、この幼子、未だ学問せざること明らかなるに、この仁心を持てるは、いずこに有りや。その性悪にして、その善偽なれば、この幼子、仁心を持つこと能わずして、助けんとする偽あらざらん。然れば、人の性は善にして、その悪は偽なり」

 だが、荀子はそんなことは分かっている。分かっていて、敢えて性悪篇を顕したのだ。

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